第五話:嵐の前の準備と、繋がる手
教団の使者が去った後、教会には重い沈黙が落ちていた。
「ど、どうしましょう、レイさん……」
セレスティーナは、今にも泣き出しそうな顔で俺を見つめている。
「ヨハネス司教様は、とても厳格な方だと聞いています。規律を乱す者を決して許さないと……。このボロボロの教会を見られたら……それに、レイさんのことも、きっと……」
彼女の不安はもっともだ。ガルドーのような小悪党とは違い、教団の最高幹部である司教は、権力も洞察力も桁が違うだろう。下手をすれば、この教会は取り潰され、セレスティーティーナは聖女の位を剥奪されるかもしれない。
だが、俺は暗殺者だ。予測される脅威に対し、ただ怯えて待つなどという選択肢はない。
「まず、やれることをやる」
俺は短く告げると、教会の外壁を見上げた。一番の問題は、このみすぼらしい外観だ。
「手始めに、あの屋根を直す」
「えっ!? で、でも、どうやって……」
戸惑うセレスティーナを尻目に、俺は壁の石の凹凸を足がかりに、驚異的な身のこなしで屋根へと駆け上がった。常人離れした身体能力。これもまた、俺が培ってきた『技術』の一つだ。
剥がれた瓦を並べ直し、傷んだ梁を補強する。その作業を黙々と続けていると、下から野太い声が飛んできた。
「おい兄ちゃん! 素人にしては筋がいいが、見ていて危なっかしいぜ!」
声の主は、いかつい顔つきの、しかし目の奥は人の良さそうな大工の親方だった。彼はガルドーに用心棒代を脅し取られていた一人で、俺たちのことを気にかけてくれていたらしい。
「聖女様にはいつも祈ってもらって世話になってるんだ。それに、あんたも気に入った。よし、弟子ども! 教会の修繕を手伝え! 代金は聖女様の笑顔でいい!」
親方の鶴の一声で、屈強な大工たちが次々と集まってくる。それを聞きつけたパン屋は差し入れを、商人は修繕に必要な資材をカンパしてくれた。
昨日まで閑散としていた教会は、あっという間に人々の活気で満たされていった。
夜、教会の修繕を頼もしい専門家たちに任せ、俺は再び闇に紛れていた。
向かった先は、街の情報屋が営む酒場のカウンター。
「ヨハネス司教、ねぇ……」
俺が置いた銀貨を指で弾きながら、情報屋は口を開いた。
「『鉄血司教』の異名は伊達じゃねえ。不正には虫唾も走らぬほど厳しいお方だ。ガルドーのような輩とは派閥も違う。奴の死の真相と、この教区の腐敗を炙り出しに来るってのが本命だろうな」
情報屋は続ける。
「だが、面白い噂もある。司教様は、信心深く、真に民を思う聖職者には、驚くほど甘いらしい。アンタとこの街の連中が守ろうとしてる聖女様が『本物』なら……あるいは、な」
有益な情報を手に入れ教会へ戻ると、そこには温かい光景が広がっていた。
セレスティーティーナが、修繕を手伝ってくれる街の人々のために、一生懸命お茶を淹れている。もちろん、盆の上のカップは今にも崩れ落ちそうだ。
俺が背後からさりげなく盆を支えると、彼女は「わっ!? れ、レイさん!」と顔を真っ赤にした。
その夜、二人きりになった礼拝堂で、セレスティーナは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます、レイさん。それに、街の皆さんにも……。私、一人だったら、きっと泣いているだけでした。でも、今は怖くありません。皆さんがいてくれるから、私、頑張れます」
月明かりに照らされた彼女の瞳には、もう怯えの色はなかった。そこにあるのは、聖女としての強い意志と、俺への絶対的な信頼。そのまっすぐな視線に、少しだけ戸惑いを覚えた。
そして、司教の視察予定日の前日。
街の人々の協力のおかげで、教会は見違えるように綺麗になった。屋根は輝き、壊れていた長椅子は修復され、祭壇には皆が持ち寄った花が溢れている。これなら、どんな司教が来ても文句はつけられないだろう。
「これで、準備は万全ですね!」
セレスティーナが満足げに頷いた、その時だった。
「大変だーっ!」
一人の少年が、息を切らして教会に駆け込んできた。
「街の入り口に、教団のすっごい行列が……! 白くてピカピカの馬車が停まったんだ! たぶん、司教様がもう着いたんだよ!」
予想より、丸一日早い到着。
偶然ではない。これは、こちらの準備が整う前に抜き打ちで視察し、主導権を握ろうという相手の明確な意志表示だ。
セレスティーナが息を呑むのが分かった。
穏やかな準備期間は、終わった。
「レイさん……」
不安げに俺を見る彼女の小さな手を、俺は無言で握った。
驚くほど冷たいその手を、俺は力強く握り返す。
――鉄血司教、ヨハネス。
どんな相手だろうと、関係ない。この手を脅かす者は、全て俺が排除する。
教会の扉の向こう側から迫り来る強大な気配を、俺は静かに見据えていた。