第三十一話:初めての野営と、塞がれた道
聖都の喧騒を背にしてから、五日が過ぎた。
俺たちの特製馬車は、どこまでも続くかのような広大な平原を、ゆっくりと、しかし着実に東へと進んでいた。文明から遠ざかるにつれて、人の姿はまばらになり、代わりに、風の音と、鳥のさえずり、そして夜には満天の星が、俺たちの旅路を彩るようになった。
二人だけの旅の生活は、驚くほど穏やかなものだった。
「レイさん、朝食です! 今日は、焦がさないように、細心の注意を払って焼いてみました!」
セレスティーナが差し出すサンドイッチは、確かに以前のような炭ではなく、片面だけが少し黒い、という目覚ましい進歩を遂げていた。俺がそれを黙って受け取り、口に運ぶと、彼女は「ど、どうでしょうか…?」と、期待と不安に満ちた目で俺を見つめる。
「……食える」
「本当ですか!? よかったです!」
たったそれだけの言葉で、彼女は心の底から嬉しそうに笑う。その笑顔を見ていると、少し焦げたくらいのパンの味も、悪くないと思えた。
夜は、交代で馬車の見張りをしながら、焚き火の前で過ごす時間が増えた。
「このエルフの言葉は、『シルヴァ』と読むそうです。『森』という意味ですが、同時に『生命の揺りかご』というニュアンスも含まれているとか。素敵ですよね」
セレスティーナは、俺の隣で古代語の教本を熱心に読み解いている。
「……あの、ひときわ明るい三つの星。あれが、真北を示している。たとえ地図を失っても、あれさえ見失わなければ、俺たちは進むべき方角を見失わない」
俺は、かつて闇の中で生きるために身につけた知識を、今、光の隣にいる彼女に教えている。その事実が、不思議と俺の心を温かくした。
二人だけの、静かで、満たされた時間。それは、俺がこれまで生きてきた人生の中で、最も人間らしい時間だったのかもしれない。
だが、そんな穏やかな旅路は、巨大な竜の背骨山脈の麓にさしかかった頃、終わりを告げた。
天候が、まるで獣の咆哮のように、突如として荒れ狂ったのだ。空は鉛色の雲に覆われ、稲妻が走り、バケツをひっくり返したような豪雨が、容赦なく俺たちの馬車を叩きつけた。俺たちは、岩陰でなんとか嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
そして、雨が上がった翌朝。俺たちの目の前に広がっていたのは、絶望的な光景だった。
昨夜の嵐で、大規模な土砂崩れが発生したらしい。俺たちが進むべき唯一の山道は、家ほどもある巨大な岩と、根こそぎになった倒木によって、完全に塞がれていた。
「……どうしましょう、レイさん。これでは、馬車が通れません……」
セレスティーナが、呆然と呟く。
俺は馬車を降り、周囲の地形を冷静に調査した。
「……迂回路を探すとなれば、この険しい山中を三日、いや、四日は余計にかかるだろう。一番早いのは、この障害物を、俺たちの手で除去することだ」
「で、でも、あんなに大きな岩……!」
俺は、倒木の中から最も頑丈そうな太い幹を選び出し、てこの原理を応用して、岩を動かそうと試みた。全身の筋肉を軋ませ、渾身の力を込める。
ミシリ、と岩がわずかに動く。だが、それだけだった。一人で動かすには、あまりにも巨大すぎる。
「くそっ……!」
焦りが、俺の心を過る。その時だった。
「レイさん、私にも、手伝わせてください!」
セレスティーナが、俺の背中に、そっとその手を触れた。
「偉大なる神よ、どうか、この人に力を……! 闇を切り拓き、光への道を作る、強き力を! 《ストレングス》!」
彼女が祈りを捧げると、その手のひらから、温かく、そして力強い光が、俺の体の中へと流れ込んできた。
「……!?」
瞬間、俺の全身に、これまで感じたことのないほどの力がみなぎるのを感じた。消耗していたはずの体力が回復し、筋肉が内側から膨れ上がるような感覚。これが、補助魔法……!
「うおおおおぉぉっ!」
俺は再び、丸太に全体重をかける。セレスティーナの聖なる力と、俺の肉体の力が一つになる。
ゴゴゴゴゴ……!
先ほどまでびくともしなかった巨大な岩が、地響きを立てながら、ゆっくりと、しかし確実に、動き始めたのだ。
俺たちは、汗だくになり、泥まみれになりながらも、力を合わせて道を塞ぐ障害物を一つ、また一つと取り除いていった。
全ての作業が終わる頃には、日はとっくに暮れていた。
その夜、疲れ果てて眠りについたセレスティーナの寝顔を見ながら、俺は一人、焚き火の番をしていた。
今日、俺たちは、初めて本当の意味で『二人で』困難を乗り越えた。俺が彼女を守るのではない。彼女が俺を助けるのでもない。互いの力を合わせ、支え合い、道を切り拓く。その確かな手応えが、俺の胸に新たな自信を灯してくれていた。
その、静かな満足感に浸っていた、その時。
ぴくり、と俺の全身の神経が、警戒信号を発した。
(……誰か、いる)
風が運んでくる、かすかな気配。
それは、森の獣のものではない。かといって、これまで対峙してきた帝国の諜報員や、『浄化の徒』の狂信者たちの、殺気に満ちたものでもない。
もっと、自然に溶け込んだ、洗練された気配。
敵意はない。だが、こちらの存在を、遠くの木々の闇の中から、じっと観察しているような、強い意志を感じる。
俺は、セレスティーティーナを起こさぬよう、音もなく立ち上がると、腰のナイフの柄に、そっと手をかけた。
焚き火の炎が、風に煽られて、パチパチと音を立てる。その向こうの闇が、まるで生き物のように、深く、静かに、うごめいて見えた。
聖都という文明の世界を離れ、俺たちは、本当の意味での『未知』の世界に足を踏み入れたのだ。
この森で、一体何が、あるいは『誰が』、俺たちを待っているのか。
新たな出会いと、新たな試練の始まりを、俺は肌で感じ取っていた。




