第二十三話:陽だまりの療養と、西からの風
俺が次に目を開けた時、視界に映ったのは見慣れた邸宅の豪奢な天井だった。
地下の冷たい暗闇ではない。血と死臭に満ちた地獄でもない。柔らかな陽光が差し込む、穏やかな場所。
(……帰ってきたのか)
全身を襲う、軋むような激痛が、あの死闘が夢ではなかったことを物語っていた。動かそうとした指先には、鉛のような重さがまとわりついている。
ふと、右手の温もりに気づいた。
視線をそちらへやると、セレスティーナが、俺の手を両手で固く握りしめたまま、ベッドの脇の椅子でこくりこくりと舟を漕いでいた。その顔には深い疲労の色が浮かび、目の下には隈ができている。俺が眠っている間、ずっとこうして付きっきりで看病してくれていたのだろう。
彼女の純粋で強力な治癒魔法と、教団が持つ最高の薬を使った痕跡が、俺の体にはっきりと残っていた。それでも、古代の魔物から受けた傷は深く、魂の消耗は激しい。完全な回復には、まだ相当な時間がかかりそうだった。
俺が、わずかに動いた左手で、そっと彼女の銀色の髪に触れた。
その感触に、セレスティーナの体がびくりと震え、彼女はゆっくりと顔を上げた。そして、俺の目が開いていることに気づくと、その翡翠の瞳を大きく見開いた。
「……レイ、さん……?」
か細い、夢うつつのような声。
「……ああ」
俺がかすれた声で答えると、彼女の瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。
「よかった……! よかった……! 目を覚まして……くださったんですね……!」
彼女は嗚咽を漏らしながら、俺の手を自分の額に押し当てる。その涙の温かさが、俺の乾ききった心に、じんわりと染み渡っていった。
「……心配、かけたな」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
俺の言葉に、セレスティーティーナは何度も何度も首を横に振り、ただ子供のように泣きじゃくっていた。
俺が目覚めてから数日後。なんとかベッドの上で体を起こせるようになった頃、ヨハネス司教が見舞いに訪れた。
「……無茶をしおって。三日三晩、生死の境を彷徨ったのだぞ」
呆れたような口調だったが、その瞳には、心からの安堵の色が浮かんでいた。
彼の口から語られた戦いの後始末は、俺の想像以上の結果だった。
カタコンベは完全に崩落し、『浄化の徒』は首領共々壊滅。聖都を襲うはずだった『神の涙』の脅威も、完全に消え去った。
そして、セレスティーナの名声は、今や聖都で知らぬ者はいないほど、絶対的なものとなっていた。特に、貧民街の住民たちにとっては、彼女はまさに生き神様そのものだった。
「君の存在は、私が責任を持って秘匿している。『聖女を守った、名もなき黒衣の英雄』として、今や吟遊詩人の恰好の題材だがな」
ヨハネスはそう言って、悪戯っぽく笑った。
「しばらくは、何も考えず、ゆっくりと休むがいい。お前たちが、その命を賭して勝ち取った平和なのだからな」
その言葉通り、俺の療養生活は、生まれて初めて経験する、本当の意味での『平穏』に満ちていた。
「レイさん! 滋養強壮に効く薬草スープを作りました! さあ、熱いうちにどうぞ!」
セレスティーナは甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれたが、その結果として運ばれてくるのは、なぜか紫色の煙を上げる、得体の知れない液体だった。
「……気持ちだけ、もらっておく」
「そ、そんなぁ……!」
俺が断ると、本気で悲しそうな顔をするので、結局は一口だけ飲む羽目になる。その味は、筆舌に尽くしがたいものだった。
晴れた日には、庭園を二人でゆっくりと散歩した。俺の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いてくれる彼女の隣は、不思議なほど心地よかった。
俺がリハビリで木剣を振れば、「無理はダメです!」と飛んできて、自分が花壇につまずく。彼女が分厚い本を読み聞かせてくれれば、いつの間にか彼女自身がすやすやと寝息を立てている。
そんな、他愛のない、陽だまりのような毎日。
血の匂いも、裏切りも、死の影もない。ただ、穏やかな時間が、俺と彼女の間を流れていく。
この時間を永遠に守りたい。俺は、心の底からそう願っていた。
だが、嵐は、その予兆を静かに告げる。
療養生活がひと月ほど過ぎた頃、再びヨハネスが俺の部屋を訪れた。今度の彼の顔には、以前のような朗らかさはなかった。
彼は、俺にだけ聞こえる声で、静かに告げた。
「西のガルディナ帝国から、大規模な使節団が、近々この聖都を訪れる」
帝国。この大陸で、教団と唯一対等な力を持つ、巨大な軍事国家。
「表向きは、友好と交易の促進を目的とした親善訪問だ。だが、奴らの真の狙いは、一つ。貧民街で奇跡を起こし、邪教徒の呪毒さえも無力化すると噂される……聖女セレスティーナの『力』だ」
ヨハネスの瞳に、鋭い光が宿る。
「気をつけろ、レイ。今度の敵は、狂信者のような分かりやすい悪意ではない。外交と礼節という、理性の仮面を被った、より狡猾で、貪欲な怪物だ」
その言葉は、穏やかな陽だまりに差し込んだ、一本の冷たい影だった。
邸宅のバルコニーで、セレスティーナが淹れてくれた、ようやくまともな味になったハーブティーを飲みながら、俺は遠く、日が沈んでいく西の空を見つめていた。
帝国の使節団。その背後に渦巻く、新たな陰謀の匂い。
(……少し、休みすぎたか)
ようやく癒えかけた傷の奥が、疼くのを感じた。
俺たちが勝ち取ったこの平穏を脅かす、次なる嵐が、すぐそこまで迫っている。




