第二十話:帰らずの迷宮と、狂信者の祈り
情報屋アルから受け取った古地図が示す場所は、聖都の最下層、貧民街よりもさらに深い、忘れ去られた墓地の一角にあった。崩れかけた霊廟の奥、苔むした石の祭壇を特殊な手順で動かすと、地獄の顎のように、黒々とした穴がその口を開けた。
ひやりとした、黴と腐臭の混じった空気が、地下から吹き上げてくる。俺は一瞬だけ、セレスティーナが巻いてくれたマフラーの温もりに顔を埋め、覚悟を決めると、その闇の中へと躊躇なく身を投じた。
カタコンベの内部は、俺の想像を絶するほどの広大さと複雑さを誇っていた。
まるで巨大な蟻の巣のように、無数の通路が縦横無尽に走り、その壁には何段にもわたって古い骸骨が収められた棚が並んでいる。空気は重く湿り、滴り落ちる水滴の音だけが、不気味に反響していた。まさに『帰らずの迷宮』の名に相応しい場所だ。
だが、俺の感覚は、この完全な暗闇の中でこそ、その真価を発揮する。
俺は目を閉じ、聴覚と嗅覚、そして肌を撫でる空気の流れに意識を集中させた。
(……風の流れが、北西から南東へ。規模の大きな空間が、そちらにある。そして、微かな松明の煤の匂い。敵の拠点は、風上だ)
俺は壁を伝い、音もなく迷宮の奥深くへと進んでいく。
最初の『番人』に遭遇したのは、地下に入ってから三十分ほどが経過した頃だった。通路の曲がり角、岩陰に潜むようにして、二人の狂信者が息を殺していた。原始的だが、不意を突かれれば厄介な罠だ。
だが、俺にとって、その程度の殺気は、まるで騒音のように分かりやすかった。
俺はわざと足音を立て、彼らの注意を引きつける。二人が殺到してきたその瞬間、俺の体は影のように沈み込み、彼らの死角へと滑り込んだ。
「「がっ!?」」
二人の狂信者は、何が起きたのか理解する間もなく、首筋への的確な一撃で意識を断たれ、物言わぬ骸となった。俺は彼らの命を奪うことすらなく、ただ無力化した。無駄な殺しは、こちらの消耗を早めるだけだ。
さらに奥へと進むと、迷宮はより複雑な様相を呈してきた。巧妙に仕掛けられた落とし穴、壁から飛び出す毒矢、幻覚を見せる魔術的な罠。だが、それら全てを、俺は長年の経験で培った危険察知能力と、超人的な身体能力で回避していく。
やがて、俺は通路の壁に、ごく微かな傷が刻まれているのを発見した。それは、ただの傷ではない。特定の記号の羅列。暗号だ。
(……なるほどな。迷宮に慣れていない新参者のための、道標か)
俺は脳内で即座にその暗号を解読し、敵が意図した『正規ルート』ではなく、その裏をかく警備が手薄な『獣道』を割り出した。敵の思考の裏を読む。これもまた、俺の得意とする技術だった。
獣道を辿り、さらに一時間ほど進んだだろうか。
風に乗って運ばれてくる匂いが、単なる煤から、人の汗と、祈りの場で焚かれる特殊な香油の匂いへと変わってきた。そして、耳を澄ますと、地響きのように、大勢の人間の声が聞こえてくる。
(……近い)
俺は、巨大な地下空洞を見下ろす、岩棚の影に身を潜めた。
眼下に広がっていたのは、悪夢のような光景だった。
フットボール競技場ほどもある巨大な空間。その中央には、黒い石でできた禍々しい祭壇が鎮座し、その周りを、数百人を超える『浄化の徒』の狂信者たちが、まるで蟻のように埋め尽くしている。彼らは皆、フードを目深に被り、一心不乱に祈りを捧げていた。
そして、その祭壇の上には、一人の男が立っていた。
痩身で、骸骨のように頬がこけた、白い法衣の男。その男が両手を広げると、狂信者たちの祈りがぴたりと止んだ。
男は、熱に浮かされたような、狂的な声で演説を始めた。
「同胞たちよ! 約束の時は、来た! 我らが神聖なる教団は、金と権力に溺れた偽りの聖職者どもによって穢され、その光を失った!」
男の言葉に、信者たちが「そうだ!」と拳を突き上げる。
「我らは、この腐敗しきった聖都を、『浄化』する! 神の怒りの代行者として、不浄なる者すべてに、鉄槌を下すのだ!」
男は、祭壇の脇に置かれていた、巨大な樽を指さした。
「見よ! これぞ、古代より伝わる禁忌の聖遺物、『嘆きの聖杯』にて精製されし『神の涙』! この一滴が水に交われば、街は三日にして黒き死の病に覆われるであろう!」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
生物兵器。それも、古代の強力な呪毒。ヨハネスの懸念を、遥かに超える最悪の計画だった。
男の狂気は、さらに加速する。
「三日後! 聖都が最も賑わう『収穫祭』の日! 我らは、この『神の涙』を、聖都の全ての水源に注ぎ込む! 街が地獄の苦しみに喘ぐ中、我らのみが持つ『解毒の祈り』をもって民を救い、この聖都の、真の支配者となるのだ!」
信者たちの熱狂は、最高潮に達した。
「そして、その狼煙として! 偽りの聖女セレスティーナを、民衆の目の前で捕らえ、その不浄なる血を、この祭壇に捧げるのだ! それこそが、我らが『浄化』の始まりを告げる、聖なる儀式となるであろう!」
男が高らかに宣言した瞬間、俺の全身の血が、凍りついた。
こいつらは、ただの狂信者の集団ではない。
聖女の名を騙り、民を欺き、その命をも弄び、全てを奪い尽くそうとする、悪魔の軍勢だ。
俺は、静かに二振りのナイフを抜き放った。
もはや、手加減の必要はない。ここにいる数百人、その全てが、セレスティーナの、そして聖都の全ての民の敵だ。
俺は、岩棚の縁に立った。眼下の狂信者たちは、まだ俺の存在に気づいていない。
――セレスティーナ、聞こえるか。お前の祈りが、俺に力をくれる。お前が灯し続ける光が、俺が進むべき道を照らしてくれる。
だから、見ていてくれ。
お前のための、たった一人の騎士が、この地獄を、今から浄化してやる。
俺は、祭壇に立つリーダーの男、ただ一点を見据え、その身を、闇の中へと躍らせた。
元・最強暗殺者の、たった一人による戦争が、今、静かに始まろうとしていた。




