第二話:ポンコツ聖女と穏やかすぎる日常
セレスティーナに手を引かれ、たどり着いた教会は、彼女の言葉通り「ボロボロ」だった。
街の外れにひっそりと佇むその建物は、石造りの壁には蔦が絡まり、屋根の瓦はいくつか剥がれ落ちている。かつてはステンドグラスだったであろう窓も、多くは木の板で塞がれていた。
「ど、どうぞ! ここが私のおうちです!」
なぜか胸を張るセレスティーナに促され、俺は軋む扉を開けて中へと足を踏み入れた。
外観とは裏腹に、教会の中は驚くほど清潔だった。
床は磨かれ、並べられた長椅子には一つも埃がない。祭壇には一輪の花が飾られ、彼女がこの場所をどれだけ大切にしているかが一目でわかった。
信者が一人もいない、がらんとした空間。だが、不思議と冷たさは感じなかった。
「お腹、すきましたよね! 私、料理は得意なんです! とっておきのシチューを作りますから、座って待っててください!」
得意、という言葉に、なぜか一抹の不安を覚えたが、黙って長椅子に腰を下ろす。
教会の奥にある質素な居住スペースから、セレスティーナが鼻歌まじりに調理を始める音が聞こえてきた。
しばらくして、ふわりと甘い香りが漂ってくる。
シチューから甘い香り……? 嫌な予感が的中したのは、それからすぐのことだった。
「うわぁぁん! またやっちゃいましたーっ!」
悲鳴と何かが割れる音。
慌てて駆けつけると、そこには目に涙を浮かべ、黒焦げになった鍋の前で立ち尽くすセレスティーナの姿があった。床には割れた壺と、白い粉が散らばっている。シチューの甘い香りの正体は、塩と間違えて投入された大量の砂糖だったらしい。
「ご、ごめんなさい……。お腹すいてるのに……私、また……」
「……別にいい。それより、ケガはないか」
「はい……手は滑らせましたけど、大丈夫です……」
しょんぼりと俯く彼女の姿に、ため息が一つ漏れる。
暗殺者としての俺の能力の一つに、『完璧な状況把握と最適解の実行』というものがある。まさか、そのスキルを鍋の後始末と夕食の準備に使うことになるとは。
「残りの食材は?」
「え? あ、はい。パンと干し肉と、野菜が少しだけ……」
「貸せ」
俺は散らばった粉を片付け、無事だった食材を手に取る。潜伏生活で自炊のスキルは嫌というほど身についていた。干し肉と野菜で簡単なスープを作り、硬くなったパンをそれに浸して食卓に並べる。
五分後。
「おいしい……! レイさん、すごいです! こんなにおいしいスープ、初めて食べました!」
目をキラキラさせながらスープを頬張るセレスティーナを見て、俺の口から、またため息が漏れた。どうやらこの聖女様は、俺が思っていた以上にポンコツらしい。
食事をしながら、ぽつりぽつりと彼女は話してくれた。
この教会は信者がほとんどおらず、教団本部からの支援金もごくわずかであること。それでも、困っている人がいつ来てもいいように、毎日一人でここを守っているのだという。
「レイさんのような方をお助けするのが、私の役目ですから」
そう言って、彼女ははにかんだ。
その笑顔は、俺が今まで見てきたどんなものよりも、まっすぐで、温かかった。
このまま、こんな日々が続けばいい。柄にもなく、そう思った。
だが、平穏を壊す者は、いつだって唐突に現れる。
ゴン、ゴン、ゴン!
教会の扉が、まるで壊すかのように乱暴に叩かれた。
セレスティーナの肩がびくりと跳ねる。その怯えた表情に、俺は眉をひそめた。
「セレスティーナ殿! いらっしゃいますかな!」
扉を開けると、そこに立っていたのは、肥え太った中年の中級神官だった。その目は蛇のようにいやらしく、俺の全身を値踏みするように舐め回す。
「これはこれは……どこの馬の骨ですかな? 聖女様が、素性の知れぬ男を教会に住まわせていると聞き、心配して見に来ましたぞ」
「ガルドー司祭代理……。この方は、怪我をされていたので保護しただけで……」
「ほう。そのようなお優しい心、結構ですな。ですが、その施しのせいで、今月の目標寄付額に達していないのでは?」
ガルドーはねちっこい口調でセレスティーナを追い詰める。
「このままでは、教団もこの教会を見捨てるしかなくなりますなぁ? あなたのその『聖女』という御立場も、どうなることか」
「も、申し訳ありません……! すぐに、なんとか……!」
深々と頭を下げるセレスティーナ。彼女の拳が、悔しさに白く握られているのを俺は見逃さなかった。
ガルドーは満足げに鼻を鳴らすと、最後に「せいぜい頑張ることですな」と吐き捨てて去っていった。
扉が閉まり、静寂が戻る。
「……すみません、お見苦しいところを」
落ち込んでいるかと思いきや、セレスティーナはすぐに顔を上げ、無理に笑顔を作った。
「大丈夫です! 私、頑張りますから!」
その笑顔が、ひどく痛々しい。
俺は黙って、ガルドーが去っていった方向を睨む。
あの男の目。あれは、ただの忠告の目ではない。獲物を見る捕食者の目だ。侮蔑と、劣情と、どす黒い欲望にまみれた、醜い目。
ああ、そうか。
この世界でも、それは同じらしい。
平穏とは、誰かが与えてくれるものではない。
自らの手で、邪魔者を『排除』して、勝ち取るものだ。
ならば、やることは変わらない。
俺の、そして彼女の『日常』を脅かすゴミは――静かに『掃除』するだけだ。
俺の内で、忘れていたはずの暗殺者のスイッチが、静かにオンになるのを感じた。