第十一話:見えない檻と、夜の仕事
聖都での二日目の朝、ニコラスは昨日と寸分違わぬ完璧な笑みを浮かべて、俺たちの部屋に現れた。
「さあ、聖女セレスティーナ様。謁見式は三日後です。時間がありませんので、本日よりみっちりと、聖都の礼拝作法を学んでいただきましょう」
彼が広げたのは、素人目にも分かるほど分厚く、細かい文字で埋め尽くされた教会の儀典書だった。
ニコラスによる「教育」は、俺の予想通り、極めて陰湿なものだった。
彼は膨大な量の手順や祈りの言葉を、わざと早口で、一度しか説明しない。当然、ポンコツなセレスティーナが覚えられるはずもなく、彼女が失敗するたびに、聞こえよがしにため息をついた。
「おやおや、辺境ではそのような作法が主流なのですかな?」
「これでは、謁見式で大神殿の皆様を失望させてしまいますなぁ……」
棘のある言葉が、じわじわと彼女の自信を削っていく。
そして、その矛先は俺にも向けられた。
「それから、レイとやら。平民であるあなたが、このような神聖な儀式の学習の場にいるのは相応しくない。聖女様が集中できないでしょうから、あなたは外で待っていなさい」
セレスティーナを孤立させ、精神的に追い詰める算段だろう。
だが、俺は静かに首を横に振った。
「お断りします。ヨハネス司教からは、いかなる時も聖女様の心身の安定を第一に考えるよう、直接言われております。俺がそばにいることが、彼女の心の安定に繋がります」
ヨハネスの名を出した途端、ニコラスの笑顔がわずかに引きつった。俺がハッタリを言っているだけだと見抜けない彼は、ぐっと言葉に詰まるしかなかった。
セレスティーナが、ニコラスにまた嫌味を言われて俯いてしまう。
休憩に入った隙に、俺は彼女のそばへ寄った。
「あの男の言葉は気にするな。呼吸が浅くなっているぞ。まず、深く息を吸え」
小さな声でアドバイスを送る。
「さっきの祈りの手順は三つに分けろ。『十字を切る』『跪く』『顔を上げる』。それ以外の余計なことは考えるな。動き出す前に、あそこの窓枠の傷を目印に、一つだけ呼吸を置け」
暗殺者がターゲットを狙う際の、マーキングとタイミングの取り方。それを応用しただけのものだ。
「……はい」
セレスティーナはこくりと頷き、次の実践に臨んだ。
すると、あれほどぎこちなかった彼女の動きは、嘘のように滑らかで、荘厳なものへと変わっていた。
「なっ……!? ま、まぐれでしょう……」
驚きを隠せないニコラスを尻目に、俺は内心で呟く。
(お前のような三流が仕掛けた見えない檻など、俺には通用しない)
その夜。
セレスティーナが疲れ果てて眠りについた後、俺の『仕事』が始まる。
黒い旅装束に着替え、窓から音もなく外へ。監視の目を欺き、建物の屋根から屋根へと、まるで影のように移動する。眼下に広がる聖都のきらびやかな夜景は、俺にとってはただの狩り場に過ぎない。
(ニコラスの背後にいるのは誰か。彼の目的は、セレスティーナの評価を落とし、表彰を取り消させることか。あるいは、失敗させて自分たちの派閥の管理下に置くことか……。まずは、金の流れと情報の出所を追うのが定石だ)
俺は、聖都の裏社会の人間が集まるという、猥雑な地区の酒場へと潜入した。
フードを目深に被り、カウンターの隅で一人、酒を舐めている男に近づく。聖都で一番と名高い情報屋だ。
俺は彼の前に、銀貨を一枚、音もなく置いた。
「少し、買いたいものがある」
情報屋はゆっくりと顔を上げ、俺の顔を値踏みするように見た。そして、その口元に、獰猛な笑みを浮かべた。
「……へっ。こいつは、とんだ珍客が来たもんだ。あんたみたいな『本物』の匂いがする奴は、久しぶりだぜ」
聖都の光が届かない、薄暗い酒場の片隅で。
俺たちの、本当の戦いが始まろうとしていた。




