第十話:聖都の喧騒と、笑顔の仮面
巨大な城門をくぐり抜けた瞬間、俺たちの世界は一変した。
辺境の街ののどかな空気は完全に消え去り、耳をつんざくほどの喧騒と、むせ返るような人いきれが全身を包み込む。
「わぁ……」
隣を歩くセレスティーナが、呆然と声を漏らした。
目の前には、どこまでも続くかのような広大な石畳の大通り。道の両脇には、天に届かんばかりの壮麗な建物がひしめき合い、その間を数え切れないほどの人々が行き交っている。豪華な装飾の馬車、きらびやかな絹の服をまとった貴族、精悍な顔つきの騎士、そして俺たちのような旅人を値踏みするように見る、聖都の住人たち。
全てが、俺たちの知る世界とは規模が違った。
人の波に流されないようセレスティーナの手を強く握り、俺たちは教団から指定された宿坊へと向かう。彼女はまるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのように、目をキラキラさせていたが、俺は警戒を解いていなかった。好奇、侮蔑、嫉妬、欲望。この街の空気には、あらゆる人間の感情が渦巻いている。
ようやくたどり着いた宿坊は、それ自体が一つの壮麗な館だった。
そこで俺たちを待っていたのは、一人の若き神官だった。
「お待ちしておりました、聖女セレスティーナ様。辺境からの長旅、さぞお疲れでしたでしょう」
柔らかな物腰、完璧な笑み。歳は二十代半ばだろうか。仕立ての良い法衣を着こなしたその男は、非の打ち所のない優雅さで俺たちを出迎えた。
「私はニコラスと申します。謁見式までの間、未熟者ながら、貴女様のお世話をさせていただくよう、大神殿より命じられております」
その視線が、俺を一瞬だけ捉えた。
笑みは崩さない。だが、その瞳の奥に、ゴミを見るような冷たい光が宿ったのを、俺は見逃さなかった。
(…なるほど。これが最初の『獣』か)
セレスティーナは、相手の腹の底に気づくはずもなく、その丁寧な態度に感激した様子で深々と頭を下げた。
「ご丁寧にありがとうございます、ニコラス様! 私のような者には、もったいないお心遣いです……!」
「いえいえ、とんでもない。さあ、お部屋へご案内します」
ニコラスに案内された部屋は、俺たちがいた教会の礼拝堂よりも広く、豪華な天蓋付きのベッドや調度品が並べられていた。しかし、そこには人の温もりが感じられない、ただの飾り物のような冷たさがあった。
窓の外に広がる聖都の壮大な夜景に、セレスティーナはなおも興奮を隠せない。
「すごいですね、レイさん! 街の明かりが、まるで宝石のようです! 聖都は本当に、夢のような場所ですね!」
その無邪気な言葉に、俺は静かに釘を刺す。
「セレスティーナ」
「はい?」
「ここは、夢のような場所じゃない。腹を空かせた獣が、互いを食い合っているだけの、ただの檻だ」
突然の真剣な声に、セレスティーナの笑顔が凍りつく。
俺は彼女の目をまっすぐに見つめて続けた。
「ここでは、誰も信用するな。特に、あのニコラスという男には気をつけろ」
「え……? ど、どうしてですか? ニコラス様は、とても親切な方では……」
「親切という仮面を被った獣が、一番厄介だ」
俺の言葉の真意を測りかね、セレスティーナは不安そうな表情で黙り込んだ。
その夜。
セレスティーナが旅の疲れから深い眠りについた後、俺は音もなくベッドを抜け出し、部屋の扉の前に立った。
目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。
……廊下の向こうを歩く、複数の足音。
……ひそひそと交わされる、俺たちの部屋の噂。
……そして、俺たちの部屋の前で一瞬だけ止まり、すぐに遠ざかっていく、一つの気配。
(……早速、客が来たか)
俺は静かに目を開ける。
その瞳には、もはや穏やかな付き添いの青年の光はない。獲物を待ち構える、冷徹な暗殺者の光だけが宿っていた。
聖都での戦いは、もう始まっている。
この巨大な檻の中で、どうやってこの純粋な光を守り抜くか。元・最強暗殺者の本領が、今まさに試されようとしていた。




