第一話:雨と聖女と、温かい手
降りしきる雨が、アスファルトではない、石畳を叩く音で目が覚めた。
違う。意識を失っていただけか。
全身を殴られたような痛みと、脇腹から流れる血の生温かさで、自分がまだ『生きている』ことを理解する。
「……最悪だ」
思わず漏れたのは、本音だった。
『組織』に裏切られ、全てを失い、死にかけていた俺を最後に轢き殺したのは、けたたましいクラクションを鳴らすトラックだったはずだ。それなのに、今俺がいるのは見たこともない中世ヨーロッパのような路地裏。
これが俗に言う、異世界転移というやつか。
だが、与えられたチート能力も、女神様からのご加護もない。あるのは、俺がこれまで培ってきた『殺しの技術』と、満身創痍のこの身体だけ。
この世界に来て三日。ろくな食い物も口にできず、チンピラに絡まれ、ろくに動かない身体でなんとか返り討ちにした結果が、このザマだ。
雨が体温を奪っていく。朦朧とする意識の中、もうどうでもいいか、と自嘲が浮かぶ。
生まれてからずっと、血と硝煙の匂いの中で生きてきた。誰かを殺し、誰かに狙われるだけの人生。安らかな死など、元より期待していなかった。
ここで朽ち果てるのも、悪くない。
そう、全てを諦めかけた、その時だった。
パシャ、パシャ……。
水たまりを跳ねる、小さな足音が聞こえた。
敵か? 路地裏の暗がりに身を潜め、息を殺す。長年染み付いた暗殺者の習性だ。だが、今の俺にまともに動ける力は残っていない。
やがて、足音の主が姿を現した。
「……天使?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
歳の頃は十六、七だろうか。雨に濡れた銀色の髪は月光を編み込んだように輝き、純白のローブは、この薄汚い路地裏にはあまりにも不釣り合いだった。なにより、その翡翠のような瞳は、不安げに揺れながらも、透き通るような慈愛に満ちていた。
俺のような、汚れた人間が見てはいけない存在だと思った。
少女が俺の存在に気づき、ハッと息を呑む。
そして、何を思ったか、俺の方へ駆け寄ろうとして――
すてんっ!
「きゃっ!?」
見事に、何もないところで足を滑らせ、盛大に転んだ。
泥水が跳ね、せっかくの純白のローブが無残に汚れる。
「だ、大丈夫ですかーっ!?」
泥だらけの顔のまま、少女は俺に叫んだ。自分のことより、俺の心配をしているらしい。
そのあまりに間の抜けた光景に、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。毒気も、警戒心も、何もかもが抜けていく。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。なんだ、この子は。
「わ、笑いごとじゃありません! すごい怪我です! 今、治しますから!」
少女は必死の形相で俺のそばに這い寄ると、おずおずと俺の脇腹の傷に、その小さな手をかざした。
やめろ、汚れる。そう言おうとしたが、声にならない。
次の瞬間、彼女の手のひらから、淡く、それでいて温かい光が溢れ出した。
「《ヒール》」
凛とした声が響くと、光が俺の身体を包み込む。
ずきずきと脈打っていた激しい痛みが、まるで嘘のように和らいでいく。あれほど出血していた傷口が、ゆっくりと塞がっていくのが分かった。
これが、魔法……。
俺が呆然としていると、少女は「えへへ」と少し誇らしげに笑った。その顔には、まだ泥がついていた。
「あの、私、セレスティーナと申します。この近くの教会で、聖女をやっておりまして……」
聖女。
なるほど、と納得した。この清らかで、神聖な雰囲気。そして、少し……いや、かなりポンコツなところを除けば、まさに聖女そのものだ。
「もし、行く当てがないのでしたら……私の教会へいらっしゃいませんか? 少しボロボロですけど、食事もありますし、雨風はしのげますから!」
無防備すぎる言葉だった。
俺がどんな人間かも知らないのに。この俺が、裏社会で『亡霊』と呼ばれ、数え切れないほどの命を奪ってきた暗殺者だとも知らずに。
だが……。
その手に、差し出された温かい光に。
俺の心を占めていた猜疑心や警戒心は、いつの間にか溶かされていた。
血の匂いしかしない人生だった。
温もりなど、とうの昔に忘れたはずだった。
「……いいのか」
掠れた声で、ようやくそれだけを絞り出す。
「はい、もちろんです!」
セレスティーナは、満開の花のように笑った。
差し出された彼女の手を、俺はゆっくりと掴んだ。泥だらけだったが、不思議なほど温かかった。
「名前を、聞いてもいいですか?」
「……レイ。ただの、レイだ」
咄嗟に出た、偽名。俺に本当の名前など、もうない。
こうして俺は、ポンコツ聖女様に拾われた。
血と硝煙の世界から逃れてきた俺が、初めて手にするかもしれない『平穏』な日常。
――だが、この時の俺はまだ知らなかった。
この温かい手と、彼女の笑顔を脅かすドス黒い悪意が、この小さな教会にさえ渦巻いていることを。
そして、それを排除するのが、俺の新たな『仕事』になるということを。