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1-05 Memory Walks Beside Us


 参拝が終わった後も私はまだ夢のなかにいた。いつまでもこの時間が続くように感じて、気づかない振りをしていたのは言うまでもない。


 鳥居をくぐって山を下り始めた参道。既に陽射しは少し傾きはじめて、灯籠の影が斜めに伸びている。ポツポツと赤い石の灯籠が立ち並ぶ道の側では蝉の声が波打っていて、足を前に出すたび風がときどき杉の枝を揺らした。


 葉月兄と志恩が、後ろからゆっくり降りてくる。


「さーて、誕生日の主役を追いかけるかあ」

「手加減してやりぃな志恩。相手は七歳の女の子やで?」

「俺のスピード、ちょっと舐めすぎじゃね?」


 私は振り返らずに、声だけを聞いていた。歩幅をわざと狭めて、少しずつ距離をあけて。


 心地よい疲れと着物の重さと、踏み締める石畳の硬さ――その全部が記憶の一部に滲むように溶けていって、ふわふわした感覚になっていた。密度が霞んでいく蝉の声と生鉄臭い穢れた血の香り、石畳の継ぎ目に影が入り込み、そこだけが深い墨を流したように黒く滲みを帯びている。


 鼻を掠める異臭を孕む風に、腐敗した土の湿った温もりが混ざっていたのは言うまでもない――なのに当時の私は、気づかなかった。ただ葉月兄と志恩の二人といるのが楽しくて、気を抜いて、追いかけっこを始めてしまう。そして階段を駆け降りて道幅の広い石畳に出た途端、私は草履を蹴るようにして走り出した。


「おい志恩! 追いつけるもんなら追いついてみなよ!」


 石灯籠が等間隔に並ぶ道を帯を握って走る。着物がずり落ちるのを気にしながら、足元だけを見て参道を駆け抜けた。いつもなら真っ先に追いかけてくるはずの志恩が、今日に限って少し遅かったのを気にしながら。


「なあ葉月、どうする? 俺、ちょっと本気出していい?」

「やりすぎんなや。主役は紬華紗やで」

「……わかった。じゃあ、大人の優しさってやつを、見せてやるかあ」


 志恩が甚平の袖をゆるく捲るのが視界の端に映った。私は振り返らずに、鼻で笑う。


 追いつけるわけない……そう思った次の瞬間、背中を鋭い風がすり抜ける――振り返った先に、あの顔があった。


「うそ……なんで、いるの?」

「はい残念でした〜紬華紗、捕獲成功っと!」

 

 息が詰まった。心臓が一拍だけ遅れて脈打つ。ほんの数秒前まで、確かに彼は後ろにいたはずなのに。


「ちょっ、マジでどうやって来たの!? ズルじゃん、それ!」

「さーて、何か忘れてないか? 俺とした約束――」


 志恩がにやりと笑って、両腕を広げる――私の逃げ道を完全に塞ぐように。


「……やめて。近づくな変態! キモい!」

「ほれ、もう逃げらんねぇぞ~。チューの時間だぁ~!」

「そんな約束してないッ!」


 顔が近づいてくる。数センチ数ミリ、記憶が曖昧すぎて覚えてないけどたぶん触れてない。いや、ちょっと触れた……のかもしれない。でもそんなこと、どうでもよかった。とにかく、恥ずかしさが爆発しそうで――。


「くたばれ青春ッッ!」


 私は全力で志恩の顎を殴った。


「ぐっ――」

「バーカ! 汗くさい! キモい! シネ!」

「いってぇ! 顔はやめろっつっただろーが!」

「青春は一度きりなのに……尊い私の初チューが……」


 芝生で大の字になって悶絶する志恩。その隣で、葉月兄が髪を梳きながら呆れた顔をしている。私は――その二人を見て、ふっと笑みを溢す。


 やっぱり、好きだなって思った。この日差しも空の色も、二人のじゃれあいも全部が温かくて。ずっと、こうしていたかった……ほんとうにずっと。この時間が永遠に続く――そう私は思ってた。だからもう一度、二人の気を惹くために独りで先に参道を駆け下りはじめる。


 石畳の継ぎ目に影が入り込み、そこだけ墨を落としたみたいに黒い。蝉の鳴き声の壁が、ふっと薄くなる――そして耳のすぐ裏側で、でも遠くから聞こえるみたいな声がした。


『……さはな』

『……ダメよ。振り向いたら、絶対にダメ』

「えっ……誰?」


 振り向いた。


 視界が一コマ抜けた直後、靴の音が消えて風が逆流。石灯籠の影が、ほんの一瞬だけ“遅れて”地面に貼りついた気がした――けれど次の瞬間には何もなかったように、もう元どおりで。


 気がついたら、私は座り込んでいた。肩に重たいものが掛かっている。


 葉月兄の腕だった。


「お兄ちゃん、どうしたの?」

「……大丈夫や、紬華紗。ここにおる」

「なんで泣いてるの?」


 抱きしめられている。優しい目で、まっすぐ私を見ている――でも温度が感じられない。こんなにも汗ばむ季節なのに、兄の肌はやけに冷たくて、生鉄臭い湿った風の匂いだけが私の鼻を通り抜けた。胸に当たる鼓動を探すみたいに耳を寄せるけど、蝉の声ばかりがやたら大きい。


「お兄ちゃん……?」

「おる。心配いらん」


 穏やかな声だけれど、その言葉が空気を震わせた手応えが薄い。兄の影だけが、地面に落ちるのが半拍ずれている――そんな錯覚までした。


「あの野郎……おい葉月、しっかりしろ!」


 志恩の声が、階段の上のほうから落ちてきた。


「おい、葉月……お前……」

「うっさいなあ……志恩、こっち来んな。僕の可愛い妹ちゃんが怖がったら……どうしてくれはるの?」


 兄の腕が少しだけ強くなる。息を呑むような白い吐息に目を奪われ、その冷たさが骨の髄まで届くように感じた。


「お兄ちゃん、痛い……」

「……すまんな」


 力が抜けた――そして兄の腕がするりとほどけ、私の体が夏の空気に返される。


「紬華紗、目ぇ開けてろよ。今は俺の声だけ聞いてろ」


 志恩が駆け寄って、私と兄の間に割って入った。握り返した掌が熱く感じる……私を包み込む兄の暖かさと違って生きてる温度だ。


「大丈夫だ、葉月……すぐに八童家の奴らが――」


 返事はない。振り返った先――兄は穏やかな顔のまま、石畳に片膝をついていた。まるで誰かを通すために道を空けるみたいに。


 蝉の声が、また厚くなる。

 赤い石灯籠の列の向こうで、ひとつだけ影が痩せた。そこから先の記憶はない――覚えているのは空の色だけだ。


 あの日の空は、昼間なのに陽の光で満ちていなかった。雲ひとつないはずなのに、世界全体が透き通る鮮血の赤に染まって、私たちを見下ろしている――蝉の声も杉の葉を揺らす風も、その色の中ではどこか遠くの出来事みたいに聞こえていた。


 後になって知ったことだ。2035年9月20日――参拝の帰り道、私はヒト成らざる何かに遭遇し、葉月兄に庇われた。志恩が助けを呼びに走り、八童家の人たちが駆けつけたとき、私は兄の腕の中で意識を失っていたという。


『あのとき葉月さんは背中を裂かれ、皮膚の下から臓腑が覗いていたのに、あの忌子……紬華紗のために一度も顔を歪めなかった』


 お兄ちゃんを見送った夜、誰かの囁きを耳にした。私の記憶に残されたのは、ただ穏やかな眼差しと冷たい抱擁だけだ。彼の背後にあった惨状は、大人たちが決して口にしようとしない。


「お兄ちゃん?」

「ごめんな……紬華紗」


 誰が何のために、あそこで私たちを狙ったのか。それは今でもよく分かっていない。けれどただ一つ確かなのは、あの空の色だけが今でも鮮やかに残っているということ。十年かけてやっと、あの日の怖さも痛みも思い出の中にしまえるようになった――だけど、あの時感じた冷たさとあの空の赤だけは、どうしても忘れられない。

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