1-04 The Past Is Never Dead
コンビニから出て、歩くこと三十分。汗が滲む背中をひと撫でするように、ようやく視界の奥に“見覚えのある景色”が広がった。
どこまでも続く広い敷地、おじいちゃんが数年前に趣味で始めた向日葵畑とトウモロコシ畑、その先に黙したまま空を睨みつける広大な庭園屋敷。それはもやは家というよりは、何かを見張るように“当然とそこに建つだけの存在”のようにも感じてしまう。
回遊式庭園を横目に、玄関へと進んだ。
郵便受けの上には、相変わらず鴉天狗の古びた置物……こういうの見ると、「帰ってきた」って感じがする。
別に懐かしいわけでも、好きなわけでもないけど。玄関には新調したインターホンが付いていたようだが、何度押しても反応はない。
「まだ壊れてんの……というか、いつ直す気なの?」
ため息混じりに戸を開ける。鍵は不用心なほど――当然のように開いていた。
「……村八分にされて誰も来ないのはわかるけどさ。ちょっとは気にしようよ、田舎でも」
ただいま、は言わなかった。どうせ言ったって、この家には誰かを歓迎する空気なんてのは残ってない。当然のように廊下を進んでいくとテレビの音が聞こえてきて、居間の引き戸を開けると、そこには千代子おばあちゃん。が座っていた。
「あら、紬華紗。いらっしゃい」
テーブルの上には、湯飲みと鬼饅頭が2つ。まるで最初から私が来ることを知っていたみたいに。
「ただいま、千代子おばあちゃん。茂おじいちゃんは?」
「ああ、シゲちゃんね。さっき駅まで迎えに行ったのよ。紬華紗が電車で来るって思ってたみたいで」
「……見事に入れ違ってるね」
コンビニの袋からパピコを取り出す。すでに溶けかけていた。諦めて半分に折り、おばあちゃんに差し出す。
「アイス食べる? ちょっと溶けてるけど、まだ冷たいよ」
「もしかして、このアイス……山田さんのコンビニで買ったの?」
声のトーンが一気に下がった。眉間のシワが語るのは、怒りよりも不安だ。
「……だって他にないんだから仕方ないでしょ」
言い訳していると、おばあちゃんの手が私の手を包んだ。それは優しさじゃなくて、確認するような祈るような力を感じる。
「紬華紗、また虐められたりしてない?」
「してないよ……たぶん」
ジャージを脱ぎ捨てて下着姿になり、誤魔化しながらパピコの蓋をかじる。視線を天井に向けて、ぼんやりと何も考えない時間に身を投げた。
「……ボーッとしてないで、葉月に挨拶してあげなさい」
おばあちゃんの声は柔らかかったけど、まるで命令みたいだった。
畳の音を吸うように、コンビニの袋を下げながら静かな仏間に足を踏み入れる。空気が少しだけ重く感じた。
線香の香り。畳のにおい。
そして仏壇の前に並んだ、三枚の写真。
腹違いの兄――倉敷 葉月と隣に彼の足にしがみ付くあどけない顔の私、そして少し気取った顔をした兄の親友――八童 志恩。
仏壇の隅には狐の形をした陶器、奇妙な天狗の面。仏と神が並べられているのは、この家では昔からの習わしのようだ――けど、意味はよく分かってない。おばあちゃんもあんまり教えてくれなかった。
そっと膝をついて、線香を三本取り出す。
折らずに、立てる。
仏壇の奥に二本。手前に一本。
上から見ると、逆三角形になるように――って、昔、葉月兄に教わった。「これが正しいやり方なんだぞ」って、どこか誇らしげに火をつけて、口を使わずに手で煽ぐ。
ひとつ、またひとつ煙が立ち昇っていく。
線香を立て終えたら、静かに手を合わせる。
合掌。一礼。そして、もう一度、合掌。
体が勝手に覚えている。毎年ここで、何度も同じことを繰り返してきたから。
そっと仏前にパピコを置いた。
「ちゃんと今年も持ってきたよ……でも、今年も志恩の分はないからね。私が全部食べちゃったから。文句があるなら、夢にでも出てきなよ?」
写真の中の兄は、やっぱり笑っていた。
霊魂を抜かれたときの私を見たあの顔じゃない。
ただ、私が知ってる、優しい兄の笑顔だった。
「ただいま、葉月兄……志恩……今年も、ちゃんと来たよ」
今から十年前の西暦2035年9月20日、その日は私の七歳の誕生日だった。そして、私の人生がいったん終わった日でもある。
あの日の記憶は一部を除いて鮮明なまでに覚えていて、脳裏に焼け付いた光景は色褪せることなく残っている――その日はとても日差しが眩しかった。目の奥がじんわり焼けるような真昼の空。真新しい草履の鼻緒が足の甲を擦り、着物は暑くて重たくて、袖の中が汗でじっとりしていた。
「ちょっと、これ暑すぎるって……」
「文句言うなや紬華紗。せっかくの七五三なんやから、きっちりしぃ」
そう言いながら、葉月兄は私の背中をぽんと優しく押した。彼の声は緩やかな京言葉の抑揚で、どこか耳に残る響きさえある。そして参道の石段を登りながら、兄の側にいた志恩がふと笑った。
「しかしまあ……七五三でここ使う家って今は少ねえだろ。やっぱ倉敷家は変わんねぇな」
振り返りながら言うその顔は、どこか懐かしさを含んだような少し意地の悪い笑みだった。
「うちはな、七五三や初詣も全部ここって決まってんの。昔からそうや」
葉月兄はそう返しながら、すっと背筋を伸ばした。その声はどこか参道の静かで――深い空気に似合っていた。
「別にここ、神社ってわけじゃねぇけどな。薬師如来と飯縄様のハイブリッドみてぇなとこだし」
「志恩、お前にだけは言われとうないな。ここの祠の鍵、誰が預かってると思てんの?」
「へいへい。八童家代々、薬王院の番人さんでした〜」
「軽ぅて腹立つなあ、お前」
ふたりの言い合いが、蝉の声と一緒に木立へ溶けていく。山の上から流れてくる空気は、町中の淀んだそれとは違って少し湿っていて、でも冷たくて苔と杉の香りが混ざって心地いい。
「ねえ葉月お兄ちゃん……アレって……」
参道の脇には、赤い石灯籠が等間隔に並んでいた。規則正しく並ぶその影が、焼けた石畳に濃く伸びている。それがやたら几帳面で、むしろ不気味に見えたのが今でも忘れられない……一基だけ影がなかったから。
確かに陽は当たっているのに、そこだけは黒が落ちていない。瞬きしたら、もう影は元に戻っていた――まるで最初から、そんな異常はなかったかのように。
「紬華紗ちゃん、怖がらんでもええよ。悪いもんちゃうから」
「なあ紬華紗、その着物めちゃくちゃ似合ってんじゃん」
志恩が後ろから茶化すように声をかけてきた。私は振り向かず、うんざり気味に答える。
「……うるさい。せめて汗で前髪がくっついてないときに言えよ莫迦タレ」
「ちぇー、そういうとこ素直じゃないよな〜」
言いながら、志恩は自分の甚平の袖を引っ張って、私の袖と見比べてくる。どっちが涼しいかの戦いか。本当にくだらない。
「なあ葉月、俺もああいうの着てみてえな〜……ってか紬華紗、絶対俺のために着てきただろ?」
「ええかげんにせぇ志恩。あんさん、黙ってたらええ男やのになあ……」
「えっ、それって褒めた!? 貶した!? どっち!?」
ふたりの掛け合いが、蝉の鳴き声に押されて遠くに引いていく。私は一歩遅れて、その背中を見ながら歩いた。
日差しがじりじりと額を焼くたびに、澄み切っていた空の青が色付いて深くなる。蝉の声はもう記憶の中の“音”ではなくて“壁”という障害となって、下山していく煩わしさを加速させた。汗の匂いと着物に染み込んだ線香の残り香、草履の底から伝わる石の熱。どこを向いても夏の密度が濃すぎて、呼吸するのも面倒に感じてしまう。
たぶん、だからだ。このあとに起きたことが、やけに10年経った今でも鮮明に焼きついてるのは。いつもと違う着物、いつもと違う空気、いつもと違う自分。その違和感の連続が、どこかで私の心に生まれた何かがズレてることを知らせていたはず。
でも私は、それに気づかなかった。
だって――あのときはまだ、夢を見ていたから。