1-02 Too Much Information
運転手が小さく息を吐き、ポカリとハンカチを差し出してきた。
厄介御三家③「無言で圧をかけるおじさん」に該当する彼は、汗ひとつかかずに心地よさそうな笑みを浮かべて口を開く。
「これ飲みなさい。あと、座席には擦りつけないようにね。他の乗客がいなかったから、良かったけど」
その“には”という言い回しに、ほんの一瞬だけ私のまつ毛がピクリと動く――けれど、顔には出さない。先に突っ込んだら負け、だ。
「あっ、えっと……すみません。ありがとうございます」
渡されたペットボトルは冷たくて、手のひらがじんわりと凍るような感覚に包まれる。思えば、あのバスの中もやけにひんやりしていた。エアコンは壊れてるって聞いてたのに――いや、だからこそ余計に変だった。
そしてバスを降りた瞬間、体を包んでいた冷気が一気に剥がれ落ちた。けれど代わりに、夏の熱気が全力で襲ってくる。灼熱、灼熱、それから灼熱。プシューッという音を最後に扉が閉まり、私だけを停留所に残してバスが静かに走り出した。
「……なんか忘れてる気がするんだけど」
ポケットを探る――そして、走り出したバスを睨みつけて顔をしかめた。
「ヤバッ……麦わら帽子、置いてきちゃった……」
慌ててバスに向かって手を振るが、③番の厄介御三家おじさんは気づかないまま、人の気も知らないニコやかなスマイルで手を振り返してくる。降りた私だけを置き去りにして、バスは遥か彼方へ。
「……あーもう最悪。帽子なしでお祖父ちゃんの屋敷まで歩くとか、ほんと罰ゲームじゃん」
バスの後部座席に取り残された麦わら帽子は、今頃どこを彷徨っているのだろう。誰かが拾ってくれるのか、それとも――バスの車内に巣食うヒト成らざるモノの玩具にされ、彼らのコレクションに追加される運命なのか。
そんな、どうでもいい想像を頭の片隅で転がしながら、私は空を見上げた。
雲ひとつない完璧な青空――なのに、何故か眩しすぎて、ちょっとだけ配慮が足りないと文句を言いたくなる。
太陽は容赦なく肌を焼きつけてくる。
皮膚がじりじりと焦げそうなほど、直射日光が肌を突き刺すようだった。
鼻先をくすぐるのは、塗りたてのアスファルトのタール臭。あれって、ちょっとバニラっぽくて――いや、やっぱ無理。頭がクラクラする。
ザリッと砂利がこすれる音に気づいて視線を落とすと、足元の少し先に黒い影が蠢いていた。それは、捨てられたゴミのように汚れていながらも、どこか惹きつけられるような黒い輝きを放つ鴉の姿。羽は綺麗に整っていて、血の気配や怪我はない。でも、体はアスファルトにペタリと力なく沈み込んでいる。
熱にやられたのか、それとも……ただの昼寝か?
「いやいや、カラスってそんな可愛い生き物だったっけ?」
しゃがみ込んで、そっと抱き上げる。
羽根はしっとりと重く、体温はほとんど感じられなかった。
近くの木陰まで運び、そっと地面に寝かせる。
そして、ポケットから③番おじさんのペットボトルを取り出し、キャップを捻ったけれど空気は抜けない。開封防止リングの輪も割れてる。
「うわっ……開封済み。絶対ムリなんだけど。」
しかも、飲み口に僅かな粘り気を感じる……気がしてならない。私の中の潔癖センサーが一斉に悲鳴を上げた。③番の厄介おじさんの飲みかけっていう字面だけで胃がキュッてなるって、なんなんだろう。さっきまで手のひらに感じてた善意と有り難みが、今はうすら寒い違和感に変わっていた……内緒だけど。
でも――。
「……あ、あなたってポカリも飲める? たぶん、おじさんの味付きだけど……死にたくないよね?」
冗談まじりにペットボトルを差し出す。するとカラスがグイッと喉を鳴らしながら、迷いもなく飲みはじめた。
彼なのか彼女なのかはわからない。でもそのカラスは、まるで当然のことのように喉を潤し、そして――感謝も告げずに両翼を広げて羽ばたいた。
空へ。
青すぎる空へ。
まるで何もかも焼き尽くしてしまうような無配慮で、無感情な蒼へ。
倉敷 結衣――私の母が、生前によく言っていた言葉が頭をよぎる。
『親切にされたら、他の誰かにも親切にしてあげるの。親切っていうのはどんな形であっても、呪いのように巡り回って必ず自分の元へ戻ってくるから』
それは、まるで呪いのように私の人生を縛りつけてきた言葉だった。まるで御伽話のルールブックみたいな言葉。でも母の言葉には魔力めいたものがあって、それは言霊のようにジワジワと確実に――死して尚も続く呪いのように私の人生を蝕み、何かを決断するたびに意思へ介入して結果を歪めてきた気がする。
母の言葉は優しいくせに、言霊みたいに私を縛る――けれど生理がくるようになって、大人に片足を突っ込んでからは嫌でも気づかざるを得なかった。
「……親切はだいたい報われない」
世の中には親切にしても全く報われない場面のほうが、圧倒的に多い。むしろ「なんでそんなことしたの?」って顔をされることすらある。正しいかは分からない。でも、導いてはきた――少なくとも、今の私が心強くそう思える程度には。
「……さて、ここから三十分か。生きて辿り着けるかな」
木陰を離れ、白く滲む道の先を見つめる。
空気は蜃気楼のように揺れていて、蝉の声もどこか遠い。
帽子を置いてきたバスの中には、あの気味の悪い老婆や営業鞄を抱えた青白い顔の男――そして、まるで何かからの干渉を受けたかのように、潰れた顔面に規制線が走る歪みを帯びた“ヒト成らざる乗客たち”がまだ座っている気がした。
けれど、それもきっと気のせいだ――そういうことにして、歩き出す。それが、今の私の正解の選び方だった。