最終章:語り継がれるかたち
最終章:語り継がれるかたち
いつからここにいるのかは、もう思い出せなかった。
季節は巡る。けれどこの森では、はっきりとした境目はない。
春と秋が混ざったような、ずっと穏やかな空気が続いていた。
“たぬき”は、今ではこの森のはじまりの場所――古い教室の近くに住んでいた。
教室の窓からは、霧の向こうに新しい着ぐるみたちが時折現れる。
ある者は目覚め、ある者は眠ったまま。
名前を忘れた者も、まだ忘れたくない者も、皆静かにそこに立っている。
そんな子たちの隣に、彼は静かに歩み寄る。
「おはよう。……大丈夫、ぼくも、昔はびっくりしたよ」
ふわふわの手を差し出す。
それはもう、着ぐるみの中の手ではない。
たぬきの姿そのものが“彼”であり、“彼”という名はもはや必要のないものだった。
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ある日、霧の中から一人の小さな子が現れた。
怯えた目をして、服も乱れていた。
まだ着ぐるみを着ていない。
きっと、どこかから迷い込んできたのだろう。
「……どこ、ここ……帰らなきゃ……」
その声に、たぬきは静かに微笑んだ。
まるで、かつての自分の声を聞いているようだった。
「ここはね、“忘れても大丈夫な世界”なんだよ」
彼はそっと、小さな着ぐるみを差し出す。
子どもは迷いながらも、それを受け取った。
「着てみる?」
戸惑いながら、少年は頷いた。
袖を通し、頭をすっぽりとかぶると、視界が変わる。
たぬきはその手を取って、笑った。
「ようこそ。ここから、君の新しいお話が始まるよ」
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夜、たぬきは焚き火の前で語り始める。
かつての忘れ石のこと、ウサギの少年、チャックが消えた日のこと。
語ることで、姿を失った誰かが少しでも“ここにいた”ことを伝えるために。
語られる限り、その形はこの森のどこかに残り続ける。
やがて、耳を傾けるケモノたちの輪が増えていく。
誰もが静かに、けれど安心したように寄り添いながら火を囲む。
その中心に、たぬきがいた。
もう、人間の名も姿もない。
けれど、“ここにいる”という事実が、彼のすべてだった。
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その日、たぬきは夢を見た。
夢の中で、かつての自分――あの教室で目覚めた少年が立っていた。
少し寂しそうに笑い、でも、こう言った。
「ありがとう。
忘れてしまっても、
誰かが覚えてくれてるなら、
それでいいんだよね」
たぬきはそっと頷いた。
その姿は、霧の中へと、静かに溶けていった。
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終
「忘れてしまうこと」は怖いけれど、
忘れても誰かが“語ってくれる”なら、それは救いになるかもしれません。
この物語が、あなたの心にそっと残る“ぬくもり”となれたら嬉しいです。
ありがとうございました。