第四章:森の外れの忘れ石
風のない日だった。
空は高く、雲は絵のように動かず、森の奥に沈んでいく光がいつもより長く尾を引いていた。
その日、“たぬき”は、森の外れへと迷い込んだ。
ウサギの少年とはぐれ、声も届かなくなった先――そこには、ケモノたちが口にしない“古い場所”があった。
木々がざわめきを止め、空気がひどく澄みすぎていた。
そこにあったのは、大きな石だった。
苔むしたその石には、ところどころ文字のようなものが刻まれていた。けれど読めない。
いや――“読めた気がする”。けれど、意味がわからない。
タ……ノ……ウ……ケ……
ナ……マ……エ……ヲ……カ……エ……ル……ト……キ……カ……ラ……
かつての“自分”が、ここで何かを残そうとしたのかもしれない。
そう思った瞬間、胸が強く痛んだ。
そして、周囲には――“チャックのない着ぐるみたち”が並んでいた。
木の下、岩のそば、道の脇。どれも、誰も着ていないはずなのに、まるで中に誰かがいるように立っていた。
「……ここで……何人も……」
震える手で、そのひとつに触れると、
柔らかな布の内側から、かすかな鼓動を感じた。
それは、眠っている誰かの心音のようだった。
「戻ろうとした子たちの、なれの果てさ」
声がして、振り返ると――
そこにいたのは、一匹の古びたオオカミの着ぐるみだった。色褪せ、縫い目がほどけかけ、目元には鋲が光っている。
「忘れきれなかった者たちは、“この形”で残ることになる。
でも、語れば残る。“ここにいた”という記憶は、語られることでだけ、続いていくんだ」
オオカミは語った。ゆっくりと、優しく。
「君は、まだ言葉を持っている。
君が忘れてしまう前に、“語る者”になることができる。
そうすれば、たとえ名前がなくても――君は誰かを“繋ぐ者”になれる」
“たぬき”は胸に手を当てた。
そこには、何かが確かに残っていた。
言葉になる前の言葉。
名前になる前の記憶。
それはもう、「帰る場所」ではなかった。
けれど――「この世界に、別の誰かを招く入口」かもしれなかった。
⸻
その夜、“たぬき”は初めて、自分の過去を夢に見なかった。
代わりに、森の奥で出会ったあの着ぐるみたちの姿を、静かに思い浮かべていた。
語られることのないまま、消えていく形。
その誰もが、誰かだった。
だから、自分が語らなくてはならない。
「ぼくが、“語る側”になるんだ」
そうつぶやいたその声が、風に溶けていった。