第三章:名前のない暮らし
それからの日々は、あたたかかった。
朝になると、鳥の鳴き声が聞こえて目が覚める。
ふかふかのしっぽを抱きしめたまま、着ぐるみのまま伸びをする。
鏡に映る自分の姿を見ても、もう違和感はなかった。
「おはよう、名前のない子!」
ウサギの少年が明るく声をかけてくる。
誰も、彼に名前を尋ねたりしない。
ここでは、名前を持たない子どもたちはたくさんいた。むしろ、持っている方が珍しいらしい。
代わりに呼ばれるのは、動物の種類――
「ねえ、たぬきくん! こっちこっち!」
いつしか、彼はそう呼ばれるようになっていた。
最初は違和感があったその言葉も、何度も呼ばれるうちに、自然と心に染み込んでいく。
「たぬきくん」という響きが、自分の心の形にぴったりと収まっていた。
「ぼく……たぬき、なんだ」
ある日、そう口にしたとき、胸の奥がふっと軽くなった。
⸻
ある夜、“けものたちの灯”というお祭りがあった。
着ぐるみの子たちがランタンを持ち、静かに森の奥へ歩いていく。
その中で、彼は“着ぐるみを脱げなくなった子たち”の話を耳にした。
「本当に長くここにいるとね、チャックが消えちゃうんだって。
中に人間がいたかどうかも、誰にもわからなくなるんだってさ」
「それって、こわくない?」
「ううん、だって――もう人間じゃなくていいもん。
ケモノでいるほうが、きっとしあわせ」
その言葉に、彼は何も返せなかった。
でも、心のどこかでうなずいている自分がいた。
翌朝、目覚めた彼は、着ぐるみのチャックがどこにもないことに気づいた。
驚くはずだった。
けれど、鏡の中のたぬきは、穏やかに笑っていた。
「これで、ずっとこのままだね」
ウサギの少年が言った。
「君も、もう“ほんとうのケモノ”だ」
たぬきはゆっくりとうなずいた。
もう、戻る場所なんてどこにもない。
けれど、それを寂しいと思う感情すら、彼の中から消えつつあった。