第二章:忘れるための森
最初の夜、彼は眠れなかった。
ふかふかの寝床。天井には光るホタルのような飾りが揺れていた。部屋の壁は柔らかな布でできており、空気は甘く、草の香りがした。
体は確かに疲れていた。けれど、心だけがずっとざわついていた。
「……帰らなきゃ……」
ぽつりとつぶやいた言葉に、耳がぴくりと反応した。
自分の耳じゃない。着ぐるみの耳が、勝手に動いた。
「帰るって、どこに?」
誰かが囁いた。だれ? 声の主は――
……いや、違う。これは自分の心の声だった。
自分の中の“何か”が、語りかけている。
「思い出すほど、痛くなるよ。
だから、忘れたほうがいい。ここは優しいから。
名前も、失敗も、君が誰だったかも――」
⸻
翌朝、彼は“ケモノの子どもたち”と遊んだ。
ウサギ、タヌキ、キツネ、リス、イヌ、ネコ。
みんな着ぐるみ姿で、でも誰も「着ている」という感覚を持っていないようだった。
「“なりたいもの”になっただけだよ」
そう言って笑ったネコの女の子の笑顔を、彼はなぜかずっと覚えていた。
遊ぶうちに、彼の動きも自然になっていった。
手袋の中の指がぴたりとフィットし、尾を振るタイミングも自分でコントロールできるようになる。
「もう、“着てる”って感じじゃないよな……」
と、ふと思ったときだった。
手を見た。指が、着ぐるみの布のように見える。でも、その中に“手”は……もうあるのか?
感覚が曖昧になっていた。
「今日も楽しかったね!」
帰り道、ウサギの少年が笑った。
「君さ、もうだいぶ“こっち側”に馴染んできたね。
たぶん、あと何日かしたら、全部忘れちゃうと思うよ。元の名前も、年も」
「忘れたくない……はずだったのに……」
「でも、ね?」
少年は、少しだけ悲しそうな目をした。
「思い出して泣くより、知らずに笑ってるほうが、楽だよ」
⸻
その夜、彼は夢を見た。
夢の中で、誰かが名前を呼んでいた。
だけど、その声は遠く、聞き取れない。
何度も呼ばれているのに、返事ができない。
口が動かない。
――いや、“名前”が思い出せなかったのだ。
「……ぼく、だれ……?」
夢の中の自分がそうつぶやいたとき、胸の奥で何かが静かに、でも確かに崩れた。
そして朝――
彼は、自分の名前をひとつも思い出せなかった。
けれど、なぜか、少しだけ安らいでいた。