072話:女官イースさんから服を借りたよ
あれって何だったのかな?どうやら私は独り言のように呟いたらしく、
ヴェルシーには無視されたのかな?
そう思いながら振り向くと、彼女はすでにいなかった……
ヴェルシーは図書室に戻っていて、図書棚から本を探しているのかな?
歩くたびに図書棚が増えてゆき、それが道になっていった。
戻り方を聞いていなかったけれど、ここでは「戻りたい」と思えば、
水をかくように動くだけで、空間がそっと押し戻してくれた。
そのまま球体の湯船に飛び込むと――
これはこれで、ゆったりできるお風呂だった。
もう、遠くの方を見ない方がいいのかしら? と思っていると、
「そうだね、君はここから、距離ある実家のお風呂を、
覗いているのと同じだからね」
覗いてなんかいませんけど?
だけど――そうなるのかな?
ヴェルシーに文句を言おうとしたけど、言葉が出てこなかった。
「疲れちゃったね、ヴェルシー」
湯船の中からそう言っても、この世界ではちゃんと伝わっているみたい。
「そうだね」
と言ったヴェルシーの言葉も、湯船の中にいるのにちゃんと聞こえた。
ほんと、変な世界ね。
そろそろ元の世界に戻らないとかな……注意事項のひとつ、
“あまり長くこの世界にいてはならない”。
こんな変な世界に長くいるとおかしくなってしまうから?
と聞いたけど、ヴェルシーの答えは――
「おかしい世界の人が長くいると、まともな人になっちゃうからね」
と言われた。……面倒なので、いつもどおり追及はしなかった。
……そのうちわかるだろうから。
このままベッドで寝ていたことを思い出せば、すぐに現実に戻れる。
それはわかっていて、先ほどのことがあったせいか――目を開いて、
いつもの世界へ戻って来たのに、なんだか怖かった。
少し手が震えていた。だから、あまりあちらに“潜って”はいけないのかな?
この、すごく大きなベッドも、
いくつもの綺麗な宝石が転がっているヴェルシーの机だって、
部屋が全部なんだか存在感が薄れてしまう気がしている。
――そうか、私の存在が薄れているのかも。
……あちらに行くのは、しばらく控えようと思った。
ベッド横の出窓から見える帝都は、欠け残った太陽の橙色で染まっていた。
黄昏模様は、寂しさを感じるときもあるけれど――私はとても好きだった。
だからだろうか?帝都の騒がしさこそが現実に思えた。
なので私は、久々に繁華街に歩いて出かけることにした。
聞こえているかわからないけど、彼女に声を掛けてから服を着替えるために宮殿の内室へ向かった。
見かけはごく普通の扉。でも、それを開ければ、もう内室だった。
私はほとんど使っていない部屋だから、生活感はない。
……荷物置きになっていると言ってもいいかもしれなかった。
どうやらこの部屋を女官イースさんが掃除してくれるようだ。
それは想像じゃなくて、本当のことだ。
――掃除道具を持った女官イースが、ちょうど今、入って来たのだから。
「るっ、るるっ……瑠る璃さま!! どうなされました?」
慌てて掃除道具を降ろしたイースさんは、
手を合わせながら私からの要望を待っているようだった。
いつも通り、私とは視線を合わせず俯いているけれど……
一応、ここも私の部屋なんだけどな。
でも、女官イースさんの反応は理解できた。
彼女は碧り佳姉さまや、深る雪姉さまたちより少し年上ではあるけれど、
その仕草も可愛らしい人で――それを見ていると、
なんだか私がいじめているみたいに思えた。
だから私は、彼女が握っていた手をそっと握り返した、
「帝都の大通りに歩いて出たいから、服を着替えたいの」
そう言ってお願いすると、「はい、外出用はこちらです」整った声で、
イースさんは静かに案内してくれた。
どうやら私がわがままを言ったような形になってしまい――
最終的には、女官イースさんの私服を借りることにした。
「私の服なんて……あの、質素すぎるかと……」
「そういうのが、今はちょうどいいの」
そう言ったら、イースさんはしばらく考えてから頷いた。
というのも、今まで私が普通に着ていた服は、
高級で派手で、帝都の中でも目立つようなものばかりで、
外を歩くには今の私には気が引けたからだった。
借りた服は、少しだけ大きめだったけれど、
落ち着いた配色の中に、遊び心のある色が数か所あしらわれていて――
とても素敵な服だった。
「では、行ってきます」そうイースさんに声をかけると、
「い、いいえ、私も……一緒に参ります!」と、言われた。
少しだけ考えてから私は言った。
「では、イースさんも着替えましょ」
その時だった。イースさんが驚いて顔を上げると、私と視線が合った。
でもすぐに、「す、すぐ、支度を致します!」と真っ赤な顔で叫び、
駆け足で――とても速い駆け足で、自室へ戻っていった。
私がゆっくりとロビーに着いた頃には、もう女官イースは準備を終え、
追いついてきていた。
少しだけ乱れた息を整えただけで、もう平気なようだ。
――彼女は見掛けによらずすごく体力もあるんだなと思った。
彼女の服も、色合いは違えど落ち着いた雰囲気で、
街に出るにはちょうどいい印象だった。
けれど――ひとつだけ目を引くものがある。
胸元に、小さくあしらわれた明るい色の紋章。
それは、ユキノキ国の精霊使いを示すものだった。




