056話:探検家クロノークさん……考えすぎないでね
ヴェルシーは、私の背中にぴとっとくっついて寝ていた。
久しぶりかなー、そう思いながら、
私もルクミィさんの背中にくっついて寝ていた。こうしていると安心する。
でも――そろそろ起きようかな?
あれだけ騒がしかった外の様子も、今はすっかり静かになっている。
谷間に吹き付ける風の音だけが、かすかに耳に届いた。
何もすることはない。
だから、もう少し寝ていようかとも思ったけれど――
ズレた扉の隙間から、優しい月の光が差し込んでいるのに気づいた。
起き上がると、舞い上がる細かな埃。
……なんだろう?扉のあたりに、微かな違和感を覚えた。
よく見ると――扉が、動いている?
ほんのわずかだけど、小さな小石さえも振り落とせないほどの動きだった。
……んっ?ヴェルシーが、私の背中の服をぎゅっと掴む。
「あれは、なんでもないよ」
小さくそう言うと、彼女はまた丸まって、眠りに落ちていった。
私はヴェルシーを見ながら、小さく「うん」と返す。
そして、ぐっと伸びをして、残る眠気を追い払った。
立ち上がって、月明かりの通路を歩いて、扉のところまで来た。
そこで――気づいた。
探検家クロノークさんが、じっと私を見ていた。
見ているのはただの偶然じゃない。彼の驚きの表情が、それを物語っていた。
……どうして見つかっちゃったのかな?
そんなことを思いながらも、とりあえず挨拶をした。
彼は、とっさに声が出なかったのか。
ただ、私を指さし――そして、固唾を飲み込む。
――やっと、絞り出すように言った。
「君は……本当に人間かい?」
月明かりに包まれた私を見つめながら、さらに続ける。
「今日のこの夜に、こうして現れた君は、やはり……」
探検家クロノークの言葉が途切れる。
……ためらっている?なら私が続きを言おうかな。
「これも偶然ですよ……なんてね」
私は、ルクミィさんをまねて、からかうように微笑んだ。
「私は、どちらでもいいんです」
探検家クロノークさんが、目を見開いた。
――人であることに、こだわらなくてもいいかなって思ったんです。
だって、全部捨てて家出して、ここまで来たんですから
「家出……?」
探検家クロノークが、呆然と私を見つめる。
「でも、もう帰るみたいです」
私は、ふっと笑いながら言う。
「こっそり家出したので、こっそり帰ります」
月明かりが、静かに扉の影を伸ばしていた。
探検家クロノークは、落ち着きを取り戻すと扉を指さした。
「……他の子たちも、まだいるのかい?」
私が頷くと、彼は続けて話し始める。
「結局、俺たちの預言の“悪魔”の件は解決していないけど……」
彼は少し考え込むように間を置き、それから静かに言葉を続けた。
「それでも、国内の分裂がうそのように、
完全に収まったのは、君たちのおかげだろう。
本当に偶然ではないだろう?もうわからないがとにかく礼をしたい。
あなた達にふさわしい、もてなしができるかはわからないが……」
うーん……。私は考えた。――こうなると、やっぱり気になるのは、
食べそこなった食事。結局、あの騒動の後、
口にしたのは数粒の飴玉だけだった。問題ないよね?
そう問題ない。
そう考えて、探検家クロノークの申し出を受けようとした。
その瞬間――
私は、無意識のうちに口を開けかけたまま、視線を動かす。
探検家クロノークさんは、それにすぐ気づいたようだ。
私が彼の背後に意識を奪われていることを。
彼の後ろ――
そこには、ランタンの明かりすら飲み込んでゆく、深い闇があった。
探検家クロノークさんの表情が、一瞬で引き締まる。
「下がって!」
鋭い声が響いた。私の前に立ちはだかると、
探検家クロノークさんは、一瞬の迷いもなく剣を抜いた。
鞘から抜ける金属音が、静寂の中で鋭く響く。
闇は、静かに蠢いていた。――まるで、こちらを見ているように。
私は、探検家クロノークさんの服をぎゅっと掴んだ。
私の方を見てもらい「大丈夫です。」と、
そう言って彼の前へと歩み出た。
そして――
「平気ですよね。”本当”に食べないよね?」
私の言葉に、探検家クロノークさんは、ますます混乱したように顔を歪める。
月明かりに現れた少女が、今度は暗闇に向かって語りかけていた。
探検家クロノークさんは、
目の前で起こることが信じられないのか、小さく呟いた。
「……もうダメかもしれん……!」
呆然としてる探検家クロノークさんは置いておいて、
私は助けに来てくれた彼らにお礼をした。
「魔掌ルドさん、来てくださってありがとうございます」
私の言葉とともに、闇の中から魔掌ルドさんが姿を現した。
静かに歩み寄り――何も言わず、目の前に立つ。
そして、制帽を脱ぎ捨てると、両手を差し出して、私の手をしっかりと握った。
言葉では伝えられないものが、確かに伝わってきた。
「彼らが……悪魔か……」
角を見つけた探検家クロノークさんは、自分の全てが崩れていくようだった。
まるで、今自分が見ているものが何なのかすら、
わからなくなったかのように――
ルクミィさんが扉の隙間からそっと姿を現した。
彼女は、しゃがみこんで探検家クロノークさんのそばに寄ると、
そっと肩に手を置いた。
「あら、心配しないでください。あなたは強い人ですよ……」
ルクミィさんは、静かに微笑むと立ち上がった。
そして、私に向かって声をかける。
「瑠る璃さま、ヴェルシーさま、これでお二人はお自宅へ帰られますね」
「これで、私も一度帰ります」
その言葉に、私は思わずルクミィさんの顔を見上げた。
――いつの間にか、私の隣にヴェルシーが立っていた。
「彼女は乗れないから、ここでお別れだね」
そう言うと、ヴェルシーは迷うことなく魔法生物キューちゃんに乗り込んだ。
「そうなの? ルクミィさん」
私が尋ねると、ルクミィさんは肩をすくめるようにして答える。
「ちょっと帰るだけですよ? 言いましたよね」
そう言いながら、ルクミィさんは両手を振ってみせた。
その姿は、驚くほどあっさりとしていた。
……だからだろうか。
私も、寂しさを感じることなく、両手を振り返すことができた。
「またね!」
そう言って、私はヴェルシーのあとを追った。
そのすぐ後ろに、魔掌ルドさんも静かに乗り込んだ。
ルクミィは、一息つくと探検家クロノークに向かって手を差し出した。
「さあ、立ってください」
探検家クロノークは、ぼんやりとした目でルクミィさんを見つめた。
それでも、促されるままに手を取ると、ゆっくりと立ち上がる。
「探検家クロノークさん」
ルクミィさんは、まるで空に問いかけるように言った。
「あなたが知るべき知識は――ここではないようですよ」
探検家クロノークは、
その言葉の意味を測りかねたように、唇をわずかに開いた。
それでも、彼女の言葉に逆らうことはしなかった。
「……はい」
探検家クロノークは視点の定まらない目で、
覇気のない声で、ただそう返事をする。
そして――。ルクミィさんのあとを、静かに追いかけた。




