魔法って難しいよ~
寝ながらベッドの上で手足をバタバタとさせていた。
こうすると何かいいことを思いつくかもしれない。
たとえば、役に立つ魔法道具をもらうとか?
それを使えば、もしかして私も魔法を使えるようになったりして。
いつの間にか両手は湯船に届いていた。ちゃぷん、ちゃぷんとお湯を叩く。
ヴェルシーお姉様、魔法を教えてくださいな……。
「ふふふ、えへっ」
真面目に言ったつもりだったのに、思わず笑ってしまう。これはいけるかも。
私は顔の半分を湯につけるところまで来ると、体を捻りながらそのまま全身を沈めていった。
そういえば、昨日は寝衣を着ずに寝てしまった。きっと服の重みで湯船の底に沈んでいくのだろう。
目を閉じたまま、「湯船の底についたら起きよう」と考えていたけど――息がもう苦しい。
そろそろ湯船に立とうとしたけど、足がどこにも触れない。
……あれ?、どこ、ここ?
目を開くと、そこは確かに湯の中だった。
でも、いつも湯面に浮かんでいる花びらが遠くに見える。まるで、はるか上空にあるみたいに。
……私、まだ夢の中?
怖くて足元を見られなかった。見てしまったら、そこには底なんてないかもしれない。
息がもう続かない。心臓が跳ね上がる!
――突然、お湯がぐるっと動いた。
何か温かいものが胸に触れて、ふわっと体が浮かぶ。
え、なに!?
――はぁ、ふぅー。
呼吸ができた。
えっ?
息が吸える。でも、どうして? 私はまだ湯の中にいるのに。
……私が魔法を使ったわけじゃないよね? これ、ヴェルシーの仕業?
呼吸ができるのはいいけど、どうやって元の場所に戻ればいいのだろう。
私は手足を動かし、湯の中でもがいた。だけど、どれだけ動いても何も変わらない。
むしろ、どんどん疲れていくばかり。
このままじゃ、もっと深く沈んでしまう……どうしたらいいの?
残された手段はひとつしかなかった。
「ヴェ~ルジ~、だず~げでよぉ!」
きらめく水面から逆光の影が見えた。ヴェルシーだと思う。
いつもぶかぶかなローブを着ているけど、あんなにひらひらしてたっけ?
どんどん近づいてくる。
私の周りをふわりと一周すると、ヴェルシーは腰を抱えて「いくよ」と言った。
なんであなたの声はちゃんと聞こえるのよぅ?
私は息を吸っていいのか、それとも止めるべきなのか、混乱していた。
けれど、ヴェルシーは迷いなく、しっかりと抱えて水面へと向かっていく。
やがて――
「けほっ、けほっ……!」
私は肺の中の水を吐き出した。
気がつけば湯船は、さっきまでの底なしの深さはなくなっていた。
ゆっくりとベッドサイドに腰を下ろし、息を整える。
「水の中で呼吸ができても、泳げなきゃ意味がないんだよ」
ヴェルシーの声がする。
んん? 泳ぐってなに?
魔法について、ヴェルシーが何かを考えてくれているのはわかる。
でも、私にはさっぱりわからないよ。
「――んー、じゃあ、早く走れるようになれるかも?」
ヴェルシーの言葉は、いつも通り謎に満ちている。
それでも、わからないなりに、何かを掴めるかもしれない。
「うん、それがいいかもね。わかりやすいわ、どうすればいいの?」
「一番広い部屋の方がいいから、螺旋階段を下りて行けばすぐわかるよ。
――あと、これ食べな」
どこから出したのか、ヴェルシーはいつの間にか、
親指と人差し指でつまんだ飴玉を私の口に入れた。
「食べ終わったら来てね」
「あひはとふぅ」
大きめの飴玉を頬張ったまま、私はくぐもった声で返事をした。
ヴェルシーはそれを気にすることなく、先に行ってしまう。
――つまり、肉体変化ってことかしら?
口の中で飴玉を転がしながら考えた。
さっきのはうまくいかなかったみたいだけど、次はいける気がする。
そう考える根拠は、碧り佳や深る雪の中で一番速く走れる程度のことだったけど。
飴玉を舐め終わる頃には、湯船につけていた脚以外はすっかり乾いていた。
そして立ち上がると、螺旋階段を降りていった。
――階段の手すりの上を、右手の人差し指と中指でトコトコ歩かせながら降りていった。
記憶の中ではたくさんの荷物が積まれていた部屋だったけど、
今は何もない広々とした空間になっている。
床は――地面? 本物の土だ。裸足で歩くと、こそばゆい。ふふぅ。
「いいね、ここいい!」
足元を見ながらヴェルシーに寄っていく。
「それで、どうすれば速く走れるの? 私、結構速いかも?」
「見て」
ヴェルシーがそう言うと、まわりの景色がゆっくりと変わり始めた。
乾いた風が吹き抜け、岩や砂が広がる荒野が目の前に現れる。
土は硬く、ところどころで走りづらそうな場所もある。
「では、走ってみて。あっちに標識があるよ」
かなり遠くだけど、私には見えた。長方形の看板のようなものだ。
荒野にはこんな角ばった物体はないので、すぐにわかる。
「計ってくれるの?」
「うん」
ヴェルシーが軽く頷くのを確認すると、一気に地面を蹴った。
視界が一瞬で圧縮される。標識がぐんぐん大きくなり、あっという間に目の前に迫った。
へぇ、これなら誰にも追いつかれないよね。これ、いい!
私は振り向いた。遠くに小さくヴェルシーの姿が見える。
そのさらに先、荒野の果てに、最初と同じ標識がもうひとつ立っている。
なるほど、ここからあっちの標識に行けばいいんだね。いっくよー!
砂埃を巻き上げながら、彼女は再び走り出す。
あっという間にヴェルシーの横を通り過ぎる――その時。
「瑠る璃!!」
緊迫したヴェルシーの大声が響いた。
咄嗟に顔を横に向ける。真剣な表情――
何かあったの?
急停止しようとした瞬間、全身の感覚が一瞬で混乱した。
「私、どうなっちゃったの!?」
スローモーションで天地がひっくり返る。
今の今まで地面に立っていたはずなのに――感覚が戻ってくる。
あ、このまま逆さのまま地面に衝突する? 自分がどうなっているのか、完全に理解した。
でも、もうなにもできない。地面がすぐそこに迫る。
目は開いたままだった。視界いっぱいに地面が広がる。
けれど、身体は止まっている。ヴェルシーが助けてくれたんだ。
もちろん、そうなるとは思っていたけれど……。
彼女を見た瞬間、訳がわからなくなってしまい、助けを求める余裕なんてなかった。
逆さになった体勢が、そっと戻される。
「今のは――君だって転びそうになったら、手を伸ばして大怪我を回避するだろう?
それに、うまくバランスを取れば、そもそも怪我すらしない。
走る能力だけじゃなく、そういう別の要素も働いているんだよ。
だから、現実で速く走る力を強化するだけでも、
全身の強化が必要でそれは自分自身の魔法でじゃないと難しいんだ」
なるほど……、簡単に魔法使いにはなれないのか――。また別の手を考えないとダメかな。
少し落ち込んで視線を落とす。そんな私をヴェルシーは横目で見ていた。
魔法を使ったように“見せる”のは簡単だよ。でも、実際に君が魔法を使うのは無理だろう。
才能がないし、魔法に対する抵抗力もまるでない。
どんな戦いに巻き込まれても、君には危険すぎる――。
でも、まっすぐに走るだけでも――あれだけ速く動けるなら、逃げることはできるはず!
私の言葉を聞いた、ヴェルシーは考え始めた。魔法を“自分以外”に使うことを、本気で。




