164話:ヴァレムウル皇子さまには言えなかったよ……
舞台の中央のスポットライトに浮かびあがったのは、凛々エルお姉さまだった。
そのとき、ヴィオラが低く一音「ボゥン……」と鳴る。
すぐにクラリネットが静かに重なり、
ハープの澄んだ音が光のように差し込む。
空気は張りつめ、場はもう――彼女のものだった。
そして、もうひとつのスポットライトが舞台に灯る。
そこに立っていたのは――帝国皇子。継承順位は十五番目。
弦がひとすじ、細く鋭く鳴り、風が通り抜けたようだった。
その音とともに、彼は何も言わず、ただ静かに立っていた。
凛々エルお姉さまの隣にいる、それだけで意味を帯びていた。
お姉さまは、三年前に彼と結婚し、帝都へ移り住んだ。
あの時の式にも、たしか――今と同じ音楽が流れていた気がする。
でも、今でもはっきり覚えているのは、
あのときのお姉さまの瞳――情熱のこもった、まっすぐな光だけだった。
目を閉じていると、もっと鮮明に思い出せる気がした。
あの瞳、あの音、あの時の空気――
私は、それに静かに浸っていた。
けれど気づけば、会場が――静まり返っていた。
そっと目を開けると、
私にスポットライトが当たっていた。
そして、そこにいたすべての人の視線が、私ひとりに向いていた。
「ここへ来なさい、瑠る璃」
凛々エルお姉さまの声が、やさしく、でも抗えない強さで響いた。
軽く速足で舞台へと近づく。
両側の階段には目もくれず、私は「ぽーんっ」とそのまま跳んだ。
ドレスの裾が、ふわりとひらめく。
トンッ――
二人のあいだに、軽やかに着地した私は、
まず皇子へ向かってゆっくりと礼をした。
そして次に、凛々エルお姉さまへも、同じように丁寧な礼を。
それからのことは――
きっと、トキノ先生が作ってくれた食事のおかげかな?
何かを考える必要はなかった。ただ、舞台の上で踊っていただけだった。
凛々エルお姉さまの踊りは、まるで私に手本を示すような、
ひとつひとつが完璧に整った、美しい導きの踊り。
でも皇子さまとの踊りは――
なぜだか、私のほうがリードしているような踊りだった。
そんなに長い時間じゃなかった。
でも――楽しかった。
少し汗ばんでいたけれど、
いつものように、ドレスの中の下着が体温を整えてくれている。
ふと見ると、胸元のあの小さな裂け目も、
傷と一緒に――もう、消えていた。
……よかった。トキノ先生のドレスが治っていて……
「少し休みましょうよ。飲み物も用意してあるから――こっちよ」
凛々エルお姉さまが先を歩き、
そのあとを私、そして皇子さまが続いた。
「君の着ているドレスは……まさか――」
そう言った皇子さまの声には、どこか敬意のようなものがにじんでいた。
舞台を降り、専用の部屋に着くころには――
彼はなぜか、私に深々と頭を下げていた。
……え? どうしちゃったの?
凛々エルお姉さまも一瞬きょとんとして、
「どうしたのよヴァレムウル……?」
お姉さまも私と同じように、事情を聞こうとしていた。
「そのデザインに、魔法糸の配置……」
皇子はじっと私のドレスを見つめたまま言った。
「私も一応、魔法使いの端くれなのでね。憶えているよ――もちろんだとも」
なんだか、ヴァレムウル皇子は魔法に興奮しているようだった。
全ての魔法使いが、“それ”をどこかで求めている気がする。
「帝都誕生のときに現れ、導いた“名もなき魔女”。
その手で作られた衣装は、今や数品しか残っていない。
しかもそれにサインが入っていれば……もう、収集家向けの宝物だ。
――でも、こうして実物を見ると、やっぱり興奮してしまうね!」
そう言って、ヴァレムウル皇子は高らかに笑った。
「まっ、瑠る璃くんも――私のことは“おにいちゃん”と呼んでくれていいぞ」
ヴァレムウル皇子は楽しげに笑った。
「はははぁ……まさか、トール国にこれほど綺麗に残って、
しかもまだ“着られる”状態のものがあるなんて。
――さては君、隠してたな?」
そう言いながら、凛々エルお姉さまにウインクを飛ばしていた。
最初は、この式に最後までいらせるつもりだったらしい。
でも――凛々エルお姉さまが「もう帰りなさい」と言うので、
私はそれに素直に従うことにした。
「……帰りますね、おにいちゃん」――なんて、やっぱり言えなかったから、
普通に、静かにその場をあとにした。
【後書き】――rururi
えっと……やっぱり言えなかったよ「おにいちゃん」って。
なんか……タイミングも空気も、全部、ムリだよぅ……!
でもね、ドレスのこと、そんなに大事なものだったんだ。
トキノ先生……ほんとに、すごいもの着せてくれたんだね。
あの人が高ぶってたの、ちょっとわかったかも。
踊るだけなのに、いろんなことが起こるなんて思わなかったけど……
私、ちゃんと真ん中に立ってた気がする。
……なんとなく、だけどね!
【後書き】――writer I
この回では、瑠る璃がふたたび“見られる側”になります。
それはただの舞台のスポットではなく、
もっと静かで、重さのある視線の集まりでした。
凛々エルの隣で踊ること。
皇子と対等に振る舞うこと。
そして、あのドレスを着て舞台に立つこと。
どれも、本人にとっては自然な流れだったけれど、
場にいた人々にとっては、それぞれに意味を持っていたはずです。
瑠る璃が知らぬまま、いくつもの立場と視線が動いていく。
そういう時間を、今回はそっと描きました。