162話:飴がしゅわしゅわしてくるのよ
最近の私の悩みは、前は浮かんでこなかったような悩みが、
頭の中からずっと離れてくれないことだった。
むぅー。
何が私から出て行ってるのか、よくわからない――けど。
むむぅー。
吐き出したため息と共に何かが、部屋の中に解き放たれていくような気がした。
……とりあえず、誰かに話してみようかな。
こういう時は、やっぱりトキノ先生だよね。
「先生」と自分で名乗るだけあって、なんでも知ってて、
なんでも私にわかるように教えてくれる。
何を聞けばいいかもわからないけど、とにかく会いに行こう。
そう思って螺旋階段を数段降りると、
キッチンの方からカチャカチャと音がした。
……何かしてる?
気になってそっと降りていくと、その原因がわかった。
キッチンの“上”に、トキノ先生は座っていた。
両脚をぶらぶらと揺らしながら、大きな本を膝に広げて、
ご機嫌な様子で鼻歌を歌っている。
時おり、ページをめくりながら呪文をぽつりと唱えると、
そのたびに、鍋やフライパンがふわりと宙に浮かび、
食材たちが自分から踊るように調理されていった。
フライパンはリズムよく回転し、包丁はまるで踊るように刻みを入れる。
魔法というより、ちょっとしたオーケストラみたいな光景だった。
「あ~、トキノ先生? 何をしているのです?」
声をかけると、先生はほんの一瞬だけ、どこか疲れたような顔をした。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように本へ視線を戻し、
鼻歌まじりに魔法で料理を続けていた。
「あなたが疲れているのよ。
だから、これを食べさせてあげたくて、作っているの。
だから――そこで、静かに見てなさい」
そ、そうなんだ……
私、そんなに疲れてる?
チーーン。
澄んだベルの音が部屋に響いた。
どうやら、それが完成の合図だったらしい。
トキノ先生が「食べてみて」と言うと、
一皿だけの料理がふわりと宙を滑るようにして、
私の目の前のテーブルへと、音もなく着地した。
香ばしい――この匂い、なんだか覚えがある。
けれど、目の前の料理は、見たことのない形をしていた。
「ねぇ……これ、何ていう料理なの?」
私がそう尋ねると、トキノ先生は本から目を離さないまま答えた。
「イタメシって言うのよ。ずっと昔はね、けっこうよく食べてたの」
「へぇ……イタメシ?」
響きはなんだか不思議で、でもちょっとおいしそうだった。
「はぁぁ~、からいよぅ……」
勢いで半分以上は食べてしまっていたけど、やっぱりすごく辛い。
ぱく――うん、辛いね。
ぱく――でも……美味しい。
ぱく、ぱく、ぱく。
気づけば、最後の一口までちゃんと食べ終えていた。
それからグラスを手に取って、冷たいジュースをごくりと飲んだ。
辛さが引いていくその感じが、ちょっとだけ、くすぐったかった。
「ちょっとは軽くなったはずよ。あたし特製スパイス入りですからね。
だから――早く会場に行きなさいね」
……そうだね。
今のいままで昨日から考えていた……何を?
もう、忘れてしまったくらい――
たぶん、たいして意味のないことだったようだ。
「トキノ先生、ありがとう。
……もう始まってるけど、こっそり入っちゃえばいいよね?」
先生はゆっくりとテーブルから降りると、私の前まで歩いてきた。
「これも、食べてみて」
ぱきっ。
小さな音とともに、トキノ先生の手のひらに飴が現れた。
いびつな形の、その飴をそっと受け取って、私は口に入れる。
ぱくっ。
入れた瞬間、しゅわしゅわっと泡が広がった。
すっぱくて、甘くて――そのあと、ほんの少し苦い味がした。
「では、行ってきますね――着替えてからですけど……」
私がそう言うと、トキノ先生はふふっと笑って、そっと私の肩に手を置いた。
「もう、あたしは神じゃないけど……魔法くらいは使えるのよ。
このくらいのことは、ね」
寝衣しか着ていなかった私は、今ドレスに包まれていた。
彩りも質感も、どこか不思議で――でも、とても私らしい。
今の気持ちをそのまま映したみたいなドレスだけど、
この見た事ないスタイルのドレスは、たぶんトキノ先生が昔、着ていた物かな?
「すごーい。これで行きますね」
上へ戻ろうとした私の手を、トキノ先生がまた引き留めた。
そのまま、詠唱を唱え終わった時には、目の前に扉が現れていた。
私は何度もお礼を言いながら、
トキノ先生に手を振って、そっとその古風な扉をくぐった。
【後書き】――rururi
はぁ~……まだちょっと辛かった。あのイタメシ。
でも、美味しかったんだよ。なんか、ちゃんと食べきれたし。
あと、あの飴。しゅわしゅわして、すっぱくて甘くて……ちょっと苦いの。
あれ、味じゃなくて気分じゃない?って思ったけど、
たぶん先生、わかってて出してるよね。
うん、とにかく元気出た。
よし、じゃあ――こっそり、行ってきます。
【後書き】――writer I
第162話は、誰かの優しさに気づかないまま沈んでいた心が、
じわじわと浮かび上がっていくような、そんな回でした。
トキノ先生の料理はただの魔法ではなく、
“ちゃんと気づいて、ちゃんと効いてくる”心のスパイス。
自分が何に悩んでいたのかさえ忘れるような、
食事と会話の中にしかない癒しが、ここにあります。