161話:野生のニンジンが現れたよ
「ジガ様は、社交界を引退したと聞いてましたから、
数年ぶりでしょうか――復帰なさるんですかね?」
嫌ですよね……とため息をつきながら、
女官のイースは扇子でそっと口元を隠した。
私は名前しか知らなかった。でも、さっき出会ったあの老人――
彼のまとう空気は、“ただ者じゃない”どころじゃなかった。
何百年と魔力付与され続けた古代の装飾具。
それに触れたときの、あの確かな「重さ」に似ていた。
……もしかしたらあの杖だったかな?
けれど……私が知っている“それ”には、不安なんてまとっていなかった。
あの老人のオーラは、恐怖を置いていく。
言葉を交わさず、ただ歩くだけで空気が変わる。
魔力でも、権力でもない、もっと別の何か。
“存在そのもの”が周囲をねじまげるような、そんな気配だった。
私もいつの間にか、ため息をついていた。
それを見ていた女官イースさんが「食事など、召し上がりますか?」
と静かに聞いてくる。
今の私は、何日食べなくても平気だし、お腹もすかない。
でも「一緒だったらね」とだけ返した。
ほんの一瞬、視線が重なっただけで、すべてが通じた気がした。
「はい」――その一言とともに、彼女はすぐに歩き出した。
私と女官イースさんは、内室で先ほどのことを話そうとしていた。
けれど、ヴェルシーは早々に家へ帰ってしまった。
でもさっきの帰り際、ヴェルシーが言った言葉だけが、頭に残っている。
「君に懐柔されたと思った猛犬が、
ああやって牙を向くとは思っていなかったよ。
それに――君が感じた通り、"病気"だろうね。あいつは」
あの言葉には、からかいとも警告ともつかない響きがあった。
むずむずと、身体の奥がざわつく。
それが武系の血統に刻まれた衝動のようなものなのか、
それともただ、魔系の解決方法ではどこか届かないと思ってしまう、
そんな自分勝手な不満なのか――よくわからない。
自分の無意識――その感触を、言葉にはできない。
なんだかざらつく空気を吸っているみたいで――むずむずする。
……でも、平気だ。
女官イースさんが持ってきてくれた食事からは、
思わず息を深く吸いたくなるような香りが漂っていた。
ニンジンのやわらかな甘さと、肉の脂の深くてまろやかな匂いが、
まるで競うように鼻腔へと押し寄せてくる。
そんなはずはないのに、
まるで初めて「美味しい」という感覚と出会ったような、そんな感じだった。
「瑠る璃さま、あのう……一応なんですけど、これがおみやげなんです。
天然ものですから……きっと、おいしいです」
私たちはまず、この素晴らしく美味しい料理に、心から感謝した。
女官イースさんにも、もちろん感謝していたけれど……
面と向かって言うと、きっと彼女が恐縮してしまうだろうと思い、
今はそっと、心の中でだけ感謝した。
しばらく甘い余韻に浸っていると、バルコニーのほうから気配がした。
黒猫――使い魔のターターさんが、手紙を咥えて静かに入ってきたのだ。
片づけ終わったテーブルに軽やかに跳び乗ると、
こちらを一度見てから、私の前にそっと手紙を落とした。
「ターターさんですよね、配達ありがとうね」
私がそう言って頭を撫でた――
と思ったら、柔らかい前足でそっと手を制されていた。
私が何度か撫でようと試みたけれど――
最後には、ピシィッと長い尻尾で手を叩かれた。
それを合図にするように、ターターさんはテーブルをすっと降り、
バルコニーの窓枠へ軽やかに跳び乗った。
するどい爪を少しだけ立てた前足を整えはじめる。
ぺろ、ぺろ、と静かな仕草。
「……さっさと読め」
そう言うと、ターターは、じっと薄い瞳で私を見て来ていた。
やっぱり、飼い主は――凛々エルお姉さま、なのかな?
私は少し身震いしながら、届けられた手紙を開封した。
――――明日、社交界の集まりがあるわ。
あなたには一人で出てもらうから、よろしく。
ちょっとした顔見せ程度のものだから、深く考えなくていいけど、
最低限の礼儀と姿勢は忘れずに。
たぶん、あなたなら何とかなるでしょう――――
私は読み終えた手紙を静かに返すと、
使い魔のターターさんは、
それを待っていたように素早くバルコニーの外へと姿を消した。
手紙の内容は、特別なことじゃなかった。
でも――
どうしてか、胸の奥に重たく、形のない何かが残っていた。
不安なのか、予感なのか、ただの気分なのか――自分でもよくわからない。
この時期に、私がしなければならないことって……何なんだろう。
女官イースさんにお礼を言ってから、
何が引っかかっているのか、もう一度ちゃんと考えようと思って、
私は四姉妹塔へと帰った。
【後書き】――rururi
……手紙って、別に変なこと書いてあるわけじゃないのに、
読むだけでちょっと気持ちが重くなるとき、ない?
中身は普通。でも……なんか、胸の奥に引っかかるんだよね。
こういうのって、あとから「なんでもなかったね」って笑える時もあるけど、
今はまだ、その「なんでもなさ」を信じきれないというか……
うーん。とりあえず、明日はちゃんと起きよう。うん。それくらいでいいや。
【後書き】――writer I
第161話は、土の奥で何かが目を覚ましかけている回です。
誰かの言葉に針のような影が混じり、
思考の隙間に名前のないざわめきが入り込む。
瑠る璃の中で、それはまだ“違和感”という名前にもなっていません。
でも、それは確かに芽を出し始めた兆しであり、
いつか彼女の行動や判断に形を持って現れるでしょう。
……あと、ターターさんはああ見えて相当手強いです。
気を抜かないでください。