139話:ねぇ、私、何回呼んだと思う?
靄が、数万本を超える針から私を守ってくれているのは見えた。
でも――全身は守りきれなかったらしい。
たった一本、短く細い針が肌に刺さっただけでも、
痺れる様な痛みが全身を走った。
……このままじゃダメだ……
――私は、何もない壁面から飛び出した。
……いや、考えれば”何もない壁”なんてありえないよね。
“その場所”を通り抜けた瞬間、全身がぞくりと震えた。
……それだけのことだった。
こんな高いところから飛び降りて、本当に無事でいられるのかな?
もちろん、地面に落ちるつもりじゃない。
目指すのは、隣の建物の屋上だった。
あぁ、でも落下する方が早い様だった。
なるだけ体を丸く小さくした。
ジャッと大きな音がして、建物の壁が靄で消し飛んだ。
熱で明るく、円状に空いた場所から隣の部屋へと飛び込んだ。
床はじゃりじゃりする砂の様だったけど、全部錆びだった。
服が――その時、頭を守っていた腕のあたりが、ぼろぼろになってしまった。
……平気。
逃げ切れるかはわからない。でも、どこまでも走れば、きっと――
錆びだらけの床がざらじゃらっと崩れた。
一つ下の階に落ちて、身体が止まったのはほんの数秒。
――また落ちた――その時にはもう走っていた。
その方が衝撃を逃せると思ったのもある。
だけどもう遅いかも。
私が次の建物へ飛び移ったとき、
背後で砂状に、錆びだらけの建物が崩れていった。
どこまで建物を下ってきたんだろう?
この世界に“地上”というものがあるなら――
今、私が遥か下に見下ろしている氷の大地が、それなんだと思う。
……高すぎて、飛び降りるなんて無理。
はぁん……行き止まり、かな。
「聖地に降りられるのは困ります」
振り返ると、そこにはルクミィさんによく似た人が、階段の前に立っていた。
ここまで降りてこられる唯一の階段を塞ぐように。
同じ殺されるなら、戦いたい――それが武系の王家の常識だし、
兄妹の中で《復活》をまだ経験していないのは私だけ――それだけの事だった。
何か飛ばしてくるのかと思ったけど、彼女はただ、歩いてくるだけだった。
私の靄の中を、何もせず、ゆっくりと――何かを拾いながら。
ん? 何を拾ってるの……?
それは、私の靄で壊された彼女の一部だった。
目の前まで来た時には、両手いっぱいにそれを抱えていた。
でも、表面が少し剥げているくらいで、ほとんど無傷のようだった。
「聖地に落とされると困ります」
――もしかして、笑ってる?
彼女は、手に持っていた表皮をさらさらと口に入れ、そのまま飲み込んだ。
そして、その手で私の首を絞めてきた。
いきなりではなく、ゆっくりとだった。
……そういう殺し方もあるらしいけど、
まさか今、それを知るとは思わなかった。
「……ど、どうして」
何を何で聞いたのか自分でも分からなかったけど――彼女が答えた。
「ここで分離されては困ります」
あ、苦しい……ような気がする。
意識がなくなりそう。
目も、開けていられない――
でも……誰か来た、かな?
……そう思っただけかもしれない。
首から手が離された……のかな?
悪夢から目覚めた、なんて体験、私にあったっけ?
大きく深呼吸すると、意識が戻ってきた。
私が立っていられるのは、目の前にいる彼女が腰を支えてくれているからだった。
「……私を殺すのは、止めたの?」
「はい。瑠る璃さまを殺すなんて……」
彼女は怒っているようだった。
私を抱いたまま、足元の縁ぎりぎりに身を乗り出すと――
キンッ――キンッ――
金属の澄んだ音がして、片手に持っていた剣を地表へ向かって投げた。
「ごめんなさい瑠る璃さま。遅くなって……
”不良品”を止める方法が、ここまで来るしかなかったので……」
「ルクミィさん」
「はい」
――何回、ルクミィさんの名前を呼んだかな?
でもルクミィさんはその度に返事をしてくれた。
【後書き】――rururi
……あの時、私は本当に死ぬと思ってた。
進めるだけ進んだ最終地点――そう考えたかも。
そして首を絞められて死ぬのねと。
最初に現れた“ルクミィさん”は、顔も声も似てるけど、別人だった。
絶対確かだった――私のことを見てなかったし。
でも――
最後に手を伸ばしてくれた“ルクミィさん”は、ちゃんと私を見てた。
一瞬迷ったけど、彼女に名前を呼んで、返事をもらった。
それだけで、ちょっとだけ安心したんだ。
ちょっとだけ不思議な感覚だったけどね。殺されかけた直後だったから。
でも、あの人の腕の中で、私は立っていられた。
もう絶対だった。
――だから、呼んだんだよ。何度も。
名前を。
ルクミィさんって。