131話:黒猫さんがたくさんだね……
進むにつれて、建物同士の間隔が広がっていった。
背景は、もう『非物質界――アストラルプレーン』特有の、
“何もない”景色に変わっていた。
時間と距離の感覚が曖昧なその世界で確かなものは、
ぽつんぽつんと建っている家と、それを繋いでいる石畳の道だけだった。
いきなり、すぐそばの家に明かりが灯った。
一瞬ぎょっとしたけれど、すぐに笑い声が聞こえてきた。
家族の団らんのようだった。
私はそっと近寄って、窓の端から少しだけ中を覗いてみた。
テーブルには、四人分の夕食がきれいに並べられていた。
スープから湯気が立ち、焼かれた肉にはこんがりとした焼き目。
グラスには赤い果実のジュース。
テーブルを囲む声は、楽しそうに食卓を盛り上げていた。
「お父さんそれ取りすぎ」
「あっ、それ僕の!」
「いいじゃないかひとくちだけ」
くすくすと笑い合う声。笑い声。皿の音。椅子の軋み。
けれど、ふと気づくとそこには誰もいなかった。
声がしたはずの椅子には誰も座っておらず、
食事もまったく手つかずのまま、
マジックキャンドルの光だけが静かにゆれていた。
奇妙さに突き押されるように、その家からすぐに離れた。
窓から、何か不思議な感覚が静かに湧き出していて、
それが私を包み込んでくるようだった。
ここはもう精神世界なのだから、
考えうる限りの“ありえそうなこと”が起こっても不思議じゃない。
……だけど、本当にこの世界にクラシェフィトゥはいるのかな?
手に持ったユメに、ぽつりと語りかけていた。
え?
手に持っていたユメが、人の姿になっていた――
……人と言っても、手のひらにちょこんと乗るくらい小さくて、
背中からは柔らかそうな布のようなものがふわりと伸びていた。
それが何なのかもわからず、私はただ、言葉も思考も追いつかないまま、
時の流れからふっと外れていた。
それは絵本の中でしか見たことのないような、
ちぐはぐで、美しい、どこか懐かしい光景だった。
「ちょっとちょっとぉ〜! 早く離してよね!」
その小さな、小さな子が、はっきりとしゃべってきた。
手のひらから小さな子をそっと離すと、
背中から伸びた、長さの違う数枚の布が一斉にふわりと広がった。
それに引かれるようにして、ふわりと空へと浮かび、私の手を離れていった。
「早く行かないとダメなんだからね。私について来て!」
どうして私は、ずっと石畳に沿って歩いていたんだろう?
ここは精神世界。飛ぶようにどこへでも行けるはずなのに、
すっかり忘れていたようだった。
「それと、家に近づかないでね。あぶないのよ。“殺されに”来ちゃうからね」
……そ、そんな人がいるんだね――
以前、碧り佳お姉さまに聞いたことがあったような……
でも、思い出すのは今じゃない。
今はまず、この小さな子が見えなくなってしまわないように、
しっかり目を離さないでいなきゃいけなかった。
追いかけているうちに、見たことのない土地が見えてきた。
ユメはそこに向かって、迷いなく飛んでいるようだった。
最初は建物でも建っているのかと思った。
けれど近づいていくうちに、それがもっとずっと小さくて、
けれど大きな意味を持つものだとわかった。
私の背丈の半分ほどの、多様な形をした彫像のようなものが、
いくつも並んでいた。
「これは、お墓なのよ……」
ユメがそう言った。どこか悲しげな声だった。
彼女はそのお墓の間を、縫うように飛びながら、どこかへ向かって行く。
これがお墓……なのね。
私の世界では、お墓は建物の中にあるものだった。
こうして広い土地に並べられているのも、別におかしくはないのかもしれない。
ただ、人口のせいなのかとも思ってみた。それとも、何か別の理由あるかな?
そんなことを考えていると、ユメが一つのお墓の前でふっと止まった。
どうやら、そこが目的地だったらしい。
私もそっと近づいて、そのお墓をよく見てみた。
まず、名前がどこにも書かれていないことに気づく。
……そっか。周囲には同じ形のお墓が一つもなかった。
それぞれの形自体が、名前の代わりなのかもしれない。
「クラシェフィトゥと出会うには、
この中にいる“彼”を“殺さないと”いけないのよ」
その言葉に、思考が止まった。
お墓の中にいる人は、生きているの? それとも、死んでいるの?
首を傾げて考えていると――
「ほら、早くしないから。あいつらが来ちゃった」
え? あいつらって、あの黒猫さんかな?
そう思ったのは、一瞬だけだった。
奥にも、左右にも――後ろにだって。
使い魔である黒猫さんたちが、たくさん、私たちを囲んでいた。
【後書き】――writer I
今回は、現実とは異なる空間――『非物質界』の中で、
少しずつ境界が曖昧になっていく感覚を描いてみました。
“存在しないはずの家族の食卓”や、“名前のないお墓”、
そして突然現れたユメの小さな姿――
すべてが真実とも幻とも言い切れない世界の中で、
瑠る璃は相変わらず、まっすぐ前に進んでいます。
そして、囲まれてしまった瑠る璃。
この章は、次への静かな引き金でもあります。
読んでくださって、ありがとうございます。
次回、何が起きるのか――私自身も少し楽しみにしています。