第一話 4-2
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それからさらに二日経つと、状況が進展するよりも悪化する速度のほうが速くなってきた。
アルフレッドはじわじわと焦りだす。なまじ頭が切れるだけに、破滅にいたるまでの道筋が鮮明に浮かびあがってきてしまう。
「チョコレート作りに精を出すのはけっこうなことだよ。しかし工房に籠もりっきりというのは健康によくない。たまには息抜きがてら食卓を囲むとしよう。君が私のことを避けていたのでなければだけど」
普段は昼間の、吸血鬼が寝ているであろう時間を狙って食事や湯浴みをすませていたのだが、今日にかぎっては廊下でばったり出くわしてしまった。
シンがネズミを狙う猫のように待ち伏せしていたのは間違いない。あたりにはほのかにカカオの香りが充満している。
とっさに逃げだそうとするも、両足が見えない力で押さえこまれているように動かない。隷属契約が効力を発揮しているのだ。
必死にあがいていると今度は口が勝手に開き、
「避けるだなんてとんでもないですわご主人様! あなたに会いたくて会いたくて毎晩枕を濡らしておりました──って、んなわけあるかぶっ殺すぞ!?」
「期待どおりの反応ありがとう。君のような男が屈辱にまみれる姿は実に愛おしいね」
シンはパチパチと手を叩く。
クリムが話していたとおり、実に幼稚なちょっかいの出しかたをするやつだ。そしていっそう憂鬱な気分になるのは、自分がやはりレオナルドと同じく愛情表現をされる対象になってしまっていることである。
籠の鳥どころか道化。飽きたら捨てられる玩具ともいう。
潔く諦めてうながされるままに中庭へ向かうと、花壇の近くに屋外用のキルトラグが敷かれ、真っ白なテーブル一式がすでに準備されていた。
椅子に腰かけるといつのまにかシンの姿が消えていて、しばらく待っているとピクニックに行くときに使うようなバスケットを抱えて戻ってくる。
本日は快晴で日差しは痛いくらいに照っているが、夜の眷属であるはずの吸血鬼はものともしていない。むしろ彫刻のごとく優美な銀髪の貴公子は、色とりどりの花壇に見事なまでに調和している。ただひとつ、スーツのうえにふりふりの可愛らしいエプロンをつけていることだけは納得できないが。
「清楚なお嬢様気分かこの野郎。ふざけてばかりいると蹴り飛ばすぞ」
「普段は近くのレストランから取り寄せているのだけど、たまにはこういう趣向も悪くないだろう。最初のころは屋敷にきたシェフがクリムを見て腰を抜かしたりと痛快だったな。ああいう見世物があるとたまには外から人を招くのも悪くないと思えるよ」
呆れて返す言葉も出てこない。
アルフレッドが来る以前に食事会を開いたのは、レオナルドが滞在していた二百年前ごろまでさかのぼるという。吸血鬼は栄養を摂取する必要がない。クリムは首からうえがないとあって、ほかに人間がいなければ料理を用意することもないというわけだ。
「お前の食事は生き血とチョコレートだけか。救いがたい偏食家だな」
「それすらもワインを嗜むようなものだけどね。完全な不死であるかぎり、この世に存在するすべてはただの『嗜好品』にすぎない。ならばこそ、その中でもっとも価値のあるものに執着せざるを得ないのさ」
飢えれば死んでしまう哀れな子羊には、まったく理解できない感覚だ。
エプロン姿の吸血鬼に侮蔑のまなざしをそそぎつつ、アルフレッドはバスケットをひったくる。中身はこの屋敷に滞在するようになってから何度か口にしている、パンにレタスとローストしたチキンを挟んだだけの料理。ただ仕入れ先が町で評判のレストランとあって、かなりの美味である。レオナルドのチョコレートもそうだが、こういう簡素に見えるものほど作り手のこだわりが十二分に反映されているのかもしれない。
シンは対面の椅子に腰をおろすと、小鳥のさえずりのようにいった。
「チョコレート作りは順調なようだね。君に目をつけて正解だったわけだ」
「お前がずいぶんと前から俺について調べていたらしいことはクリムから話を聞いてなんとなく察したよ。だが本心からすると期待はずれだったと思いはじめているんじゃないか? 今のところ成果らしいものはなにひとつあげていないぞ」
「私を驚かせたくて隠しているのか、それとも謙遜しているのかわかりにくいな。君はすでにいくつかおおきな発見をしている。たとえば粉砕したカカオを、より液体に溶かしやすいパウダーにする製法だ」
アルフレッドは鼻で笑った。あんなことは工房に置いてあるものをヒントにすれば、錬金術をかじった人間ならば誰だって思いつく。
油脂分が邪魔でダマになるなら、プレス機にかけて取りのぞけばいい。酸味が強いとするとカカオマスは酸性なのだから、炭酸ナトリウムを加えて『アルカリ処理』を施せばいい。そうすれば水との相性が改善され、ざらつき感や酸味が減ってまろやかな味わいになる。
だが油脂分を除去したパウダーはお湯やミルクで溶かすぶんにはいいが、固形物とするには不向きである。単純に冷やして固めればいいという話ではなく、舌ざわりをなめらかにする工夫が必要なのだ。
宝石のように艶やかで硬く、口に入れるとすっととろけて消えていく──あの『甘美』を再現するには、まだまだいくつもの課題が残されている。しかも、
「レオナルドのチョコレートを再現して終わり、ではないからな。むしろそこはスタート地点で、俺の目標はそのずっと先にある。なら今のところの成果なんぞ無にひとしいといえる。……おい、笑うところじゃないぞここは」
むっとした表情で呟くが、シンはなぜか眩しそうに目を細めている。
相変わらずご機嫌になるポイントがよくわからない男だ。ともあれ錬金術師の雇用主としてありがちな高慢なお貴族様のように、顔を合わせるたびに成果を出せと急かされないだけマシである。
アルフレッドはレタスとローストチキンのサンドを平らげたあと、
「外出許可をくれ。アカデミーで資料を漁りたい」
「いいね。じゃあ明日にでも行こう」
「ひとりで行くよ。調べものしている最中に絶対ちょっかい出してくるだろ」
「私が君の嫌がることを、我慢できると思うかい?」
無言でにらみつける。飼い犬が本気で殺意を抱いているのを察してか、シンは渋々ながら了承してくれた。毎回こういうやりとりを挟んでくるから本当にうんざりしてくる。
「しかし外は危険がいっぱいだからね。君はただでさえ命を狙われたことがあったし、護身用の銃は持っていったほうがいい。ほら、これを」
「前に借りた回転式拳銃だな。おまけに弾は純銀製か」
「そのあたりは抜かりない。私以外の化け物ならだいたい殺せるさ」
「試し撃ちしてみても?」
シンがうなずいたので、相手の眉間を迷わず撃ち抜くことにした。
手近な壁に狙いをつけると考えていたのだろう、吸血鬼はきょとんとしたまま後ろ向きに倒れる。アルフレッドはみすみすチャンスを逃すような男ではない。隷属の契約による拘束力も、事前に『撃つ』と了承を取っておけば問題ないことがわかった。
これで死んでくれたら大団円。と期待したもののそんなことはなく──シンはすぐさま立ちあがり、眉間の風穴をいじりながらチョコレートが入ったカップに口をつける。
「君から貰った最初のプレゼントだ。大事にするよ」
吸血鬼はそう言って、純銀製の弾丸をごくりと呑みこんだ。
やはり究極のチョコレートを作る以外に、逃げ道は残されていないらしい。