第一話 4-1
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「こちらが、かつてレオナルド様がご滞在されていた折に使われていた屋敷内の工房でございます。ご覧のとおり設備は当時のまま。掃除と調整さえすれば問題なく利用できるかと思われます。材料も当時の調達記録を調べて事前に取り揃えておきました。追加で入用なものがありましたらお気兼ねなくお申しつけください」
「さすがに準備がいいな。となるとほかに必要なものは創意工夫だけか」
そんな感想を漏らすと、ここまで案内してくれた少年は「左様でございますね」と清々しい声を返した。普段は屋敷のはなれにある厩舎で仕事をしているとあって、汚れが目立ちにくい薄黄色のブラウスにカーキ色のトラウザーといういかにもな作業着。しかし優雅な所作と慇懃な言葉遣いは執事を思わせる。本人もそう振る舞いたがっているのだろう。アルフレッドに対して大仰なほどにうやうやしい態度だ。
世話をしているのが『雷鳴とともに夜空を駆ける』霊馬と聞いたあとでは、吸血鬼に仕える小間使としてはだいぶ常識的な人物に感じられてしまう。
もっとも──首からうえがすっぱり抜け落ちていること以外は、だが。
「名前はクリムといったっけな、お坊ちゃん。頭をどこに忘れてきたかたずねても失礼にあたらないのかね。あいにく化け物どもの作法には疎いもんで」
「マデーヌ川のほとりで、ぼくを捜しているという噂は聞いたことがありますね。かれこれ三百年は前のことですから、今となってはこの身体のほうが身軽でいいのですけど」
……正真正銘の怪異を相手に軽口なんて叩くものではない。
マデーヌ川の生首といえばこの町で有名な怪談のひとつだ。かつて吸血鬼の王に不敬を働いたセーブルの王子が首を刎ねられた。以降ルヴィリアに魂を捕らわれた彼は、失った身体を求めて夜な夜な川のほとりを彷徨っているという。
アルフレッドは心底ぞっとする。早急に隷属契約を解消しなくては、自分だって『ルヴィリアの怪談』の仲間入りするはめになりかねない。
チョコレート作りに失敗して殺されるくらいならまだマシ。あのクソ吸血鬼のことだから、もっとひどい末路が待っている可能性だって十分にありえるのだから。
しかし当然、チョコレート作りは当初から難航を極めた。
白を基調とした飾り気のない工房で、ひたすら試行錯誤に費やしてはや三日。今のところ絶望的なまでに進展がない。せいぜい一部の設備を動かせるように調整したくらいである。
だのにお目付け役のクリムはのんびりとした声で、
「やっぱり錬金術師さんはすごいですね。ぼくなんてうっかり壊したらどうしようと思って触れもしなかったですよ。中を開くと歯車がびっしりですし」
「シンが俺みたいなやつに目星をつけた理由にも納得だよ。用途としちゃカカオを粉砕するだけの挽臼みてえなもんだが、効率化を図るために蒸気タービンを動力源にしていやがる。知識がなけりゃなんに使うかもさっぱりだろ」
感心するクリムを尻目に、油で汚れた手をパキパキと鳴らす。とてもじゃないがお菓子作りの準備をしているようには見えないはずだ。
問題は天才を自負するアルフレッドですら使い道がわからない道具や材料が山ほどあり、そのひとつひとつを調べて首をひねっているだけで無為に時間がすぎていくことだ。
たとえば砂糖や塩、小麦粉や調味料といった定番の代物だけでなく、炭酸ナトリウムなどの実験でしか使わなさそうな薬品類まで用意されている。
パンを膨らませるためにイーストを用いるような感じなのか? たかがチョコレート作りと侮っていたものの、思いのほか錬金術的な知識が要求されるらしい。
「せめてレシピだけでも手に入れないと、間に合いそうにないな」
そもそも初心者なのだから、先人の知恵を借りずに追いつけるわけがない。
シンが前もって用意していたチョコレートドリンクのレシピは初日のうちにあらかた習得し、今からコーヒーハウスで働いても腕前を披露できるくらいにはなっている。調合や攪拌といった基本的な技術は普段からアカデミーや工房でやっている実験とそう変わらないし、手順を覚えるだけでいいなら簡単だ。
ただレオナルドのチョコレートは、画期的なアイディアをいくつも積み重ねたうえで成立している気がしてならない。そのすべてを自力で編みだしていくのは、時間がかぎられていることからしても現実的ではないはずだ。
時が経つにつれ泥濘の中に埋まっていく記憶を掘りおこしつつ、レオナルドのチョコレートが形成していた香りの種類をひとつひとつ分析し、万年筆で紙に図を描いていく。
舌で味を感じるというのが通説だが、人間が美味しいと感じるときに強い影響を与えるのはむしろ香りや食感である。
香りについては手当たり次第……というと聞こえが悪いものの、今やっているように分析と実践を繰り返していけば的を絞ることができる。
課題となるのはやはり、あのとろけるような食感の実現だ。
ひとまず焙煎して焼きあがった粒を極限まで細かくしていけばいいのはわかる。レオナルドが粉砕機にこだわったのもそれが理由だろう。
しかしカカオだけではやはり苦みや酸味が強く、到底口にできるものではない。なので砂糖やミルクを混ぜて味を整えるわけだが、中に含まれる油脂分が邪魔してうまく溶けあわずダマになってしまう。結果、ボソボソした泥の塊の出来あがりだ。
アルフレッドは失敗作の泥を湯に溶かし、一心不乱に泡立てる。
メレンゲ状にすれば舌ざわりはマシになる。古の時代からカカオを飲むときの工夫はこれ。まったくもって原始的で、錬金術師らしくない。
「くっそ不味い! やってられるかこんなこと!」
癇癪を起こし、陶器のカップを壁に投げつける。
隣で様子を眺めていたクリムは仕事が増えて嬉しいのか、ウキウキとしながらモップを持って掃除をはじめた。首がないから試作品の処理をさせられないのが腹立たしい。
「懐かしいですねこの感じ。レオナルド様もよくそこで叫んでおられました」
「あの天才が? 錬金術師ってのはどいつもこいつも似たようなもんってことかよ。どうせ俺以外にもスカウトされた連中は腐るほどいたんだろう。そいつらは今ごろは花壇の養分か。あるいはフォシーユとかいう霊馬の餌になったのか」
「滅相もない。隷属契約もチョコレート作りのお達しもレオナルド様以来、ルヴィリアの長い歴史の中でも二人目でございます。アルフレッド様はご自分がどれだけ名誉ある立場に与ったか、いまだにご理解されていないようで」
その言葉に思わず目をむいた。
シンに期待されているのは承知していたが、過去に二人しかいないというのは信じがたい。この町に王立アカデミーが設立されて数百年、天才と呼ばれるほどの錬金術師は数多輩出されている。つまり買いかぶりすぎということでなければ──優秀であるという以外にも、レオナルドと自分に共通する特別な『なにか』があるわけだ。
たとえ引かされるのが、貧乏くじだったとしても。
黙りこんでいると、クリムがモップを片づけながら愚痴をこぼす。
「アルフレッド様の首につけられた刻印は隷属という以上に、寵愛の証しとしての意味合いが強いのです。ルヴィリアの王から庇護されていること──それはぼくたちのような存在にとっては神からの祝福を受けているに等しい。だのにあなたもレオナルド様も、チョコレートを作ることでその立場から逃れようとする」
「錬金術師たるもの、籠の鳥に甘んじるつもりはないからな。だからこそ逆に後釜に抜擢されちまった可能性もあるか。結局のところ俺もレオナルドもその才能と反骨精神をていよく利用されているだけで、シンの目的は最初からずっとチョコレートだけなんじゃないか」
「それはありえますね。ただ少なくともレオナルド様に対しては、雇用関係以上のご感情を抱いていたことは間違いありません。懐かない猫を構いたがるといいましょうか、思春期の少年が好きな子に対してちょっかいを出すときのアレといいましょうか。お館様の愛情表現はわかりやすすぎるくらいですので」
アルフレッドは顔をしかめる。出会ってまだ間もないが、その姿が容易に想像できるだけにぞっとしてしまう。あの男はどういうわけか、嫌がられたり邪険にされたりするほうが喜びそうな手合いなのだ。
「レオナルドはよくその扱いに耐えられたな……」
「あのかたも部屋から金品をくすねたあげく繁華街で豪遊したりと、隷属契約の隙間を突いてやりたい放題でしたから。今でこそ薄倖の天才というイメージがお強いですが、はっきり申しあげて相当なクズでございました」
クリムは懐かしげに語ったあと、いっそう険しい顔をしているアルフレッドに向き直る。顔にあたる部分こそないものの、この少年が今なにを考えているかは伝わってくる。
「やはり似ていますね。あなたもそういうことをやりそうです」