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第一話 3-1

 3

 

 春が間近に迫ったころでも、郷里の山は凍てつくほどに寒かった。

 みぞれとなった雪が地べたをシャーベット状に濡らし、その場に立っているだけで滑りそうになる。分厚い革手袋を嵌めていても指の先がかじかんで、今にももげてしまいそうだった。アルフレッドは白い息を吐きながら、むっつりと黙りこんでいる父親を見つめている。


 記憶にある姿よりもずいぶんと若い。自分よりもいくらか頬骨の張ったいかつい顔立ちで、狩猟用の茶ばんだ毛皮のコートはあちこちが雪の跡でまだら色に湿っている。

 若いといえば自分の姿も同じ。いや──幼いというべきか。

 アルフレッドはそこでようやく、夢を見ているのだと気づく。


「なぜあのとき、撃たなかった?」

「鹿は雌で、しかも子連れでした。ただでさえ今日は狩りすぎですから、見逃したほうが将来的な益になると自分なりに判断した結果です」


 容赦のない鉄拳が飛んでくる。幼い身体は紙屑のように吹っ飛び、雪の積もった地べたに赤い染みがぽつぽつと垂れる。アルフレッドは目をチカチカとさせながら、短絡的で理不尽な父親をにらみつける。


「戦場でも上官の指示を無視して、お得意の小賢しい弁舌を披露するつもりか? 撃てといわれたら撃て。誰もお前に『考えろ』とは命令していない。一丁の銃に徹することこそが、ワーグナー家に生まれた人間の役割なのだ」

「嫌です。常に考え、先を見すえ、よりよい選択を導きだすことが人間にのみ与えられた最大の『力』なんだ。ぼくは体力ないし視力だって弱いけど、成績だけなら誰にだって負けていない。父さんみたいに他人の命令を聞いて動くだけの人生なんてまっぴらさ。どうせ目指すなら──」


 言葉の途中で、父親の姿がぐにゃりと歪む。

 次に現れたのは、自分と背格好の近い黒髪の乙女。

 シュリー姉さんだ。しかも別れる間際の、成長した姿。


 幼かったはずの自分の身体も今に近い姿に変わっていた。寄宿学校を卒業してひさびさに顔を合わせたとき、美しく成長した彼女を見て思わず息を呑んでしまったことをよく覚えている。あろうことか許嫁との婚礼を間近に控えた姉に対して、あってはならない感情を抱いてしまったのだ。


「世界をあっと驚かせるような錬金術師になりたい、ね。私は頭がよくないから学問のことはわからないけど、アルが選んだ道なら応援してあげたいかな」

「ありがとう姉さん。俺は絶対、歴史に名を残すような男になってみせるよ」

「なら最後に私の手を握って。それで騎士様みたいに約束するの」


 アルフレッドはその場でひざまずき、姉の細い指先にそっと触れる。いつのまにか景色はきらびやかな聖堂に様変わりしていた。夢にしたってずいぶんと都合がいいものだ。この際だから現実では絶対にできないこと──たとえば唇を奪ってみるとか、そういう不埒な真似を試してみるのはどうだろうか。

 が、そこで姉は「きゃっ!」と悲鳴をあげ、アルフレッドから距離を取る。


「どうしてそんなに手が冷たいの? それに、病気みたいに真っ青な顔」


 いわれて腕をかざしてみると、確かにぎょっとするほど血色が悪い。これではまるで死人の手だ。姉が恐怖に歪んだ顔で、手鏡を渡してくる。

 眼鏡ごしにのぞく、血走った目。痩せこけた頬。

 肌は青白く、口もとから尖った牙が伸びている。

 吸血鬼と化した──醜い自分の姿。


「ああ……! やっぱりあのとき、あなたをとめるべきだったわ!」

「違うんだ! 俺はこんな姿になりたくて、錬金術師を目指したわけじゃ──」


 姉はほとんど聞いていない。

 変わりはてた弟の姿を見て嘆き苦しむように、ぽろぽろと涙をこぼしている。

 愕然とするアルフレッドの隣に、そっと父親が近づいてくる。


「お前は一族の面汚しだな。アルフレッド」



 はっとして起きあがる。背中にびっしょりと汗をかいていた。

 ……考えうるかぎり最悪の寝覚めだ。寝台横のチェストに置いてあるはずの眼鏡を捜すが、どこにもない。それで今いるところが工房ではないことに気づく。


 自分は今、天蓋つきの豪奢なベッドに横たわっている。

 なぜか、一糸まとわぬ姿で。

 ふかふかとした枕に埋もれたまま思考をめぐらせ、やがて苦悶の表情を浮かべてしまう。蘇るのはマエッセンと仲違いしたときの記憶。そして──。


「ご機嫌はいかがかな。愛しいアル」

「悪い魔法使いに捕らわれたお姫様の気分だよ、くそったれ」


 仏頂面でそう返すと、シンはクスクスと笑った。最初からずっといたのか、目を覚ましたことに気づいて現れたのか、そんなことすら判別できない。吸血鬼はいつのまにか傍らの椅子に座っていて、あられもない姿をしたアルフレッドをうっとりと眺めている。

 窓の外は明るく、室内はぽかぽかとした朝の陽気に満ちている。シンが所有する屋敷にいるのだろう。吸血鬼は陽の光に弱いと聞くが、この男にかぎってはそうではないらしい。優雅な所作で立ちあがると、鮮やかな朱色のカーテンをさっと開き、眩しさに目を細める。


 起きあがると眩暈がした。昨夜しこたま血を吸われたからだ。首筋がずきりと痛み手を当てたところで、アルフレッドはまたひとつ不都合な事実に気づく。

 吸血鬼に牙を突きたてられたときの傷痕は手のひら大のサイズに広がり、指でなぞるとその凹凸が不可思議な紋様を描いているのがわかる。東の放浪民が手足に刻んでいるような怪しげなタトゥー。それに近い、魔術的な『なにか』だ。


「いくつか訊ねたい。俺はまだ人間か?」

「今のところは。しかし何度か吸われたら、君の身体にも変化が現れる」


 その言葉を聞いて安堵するべきか、悲嘆に暮れるべきか。

 いずれにせよ、とんでもなく厄介な問題を抱えていることは理解できた。


「血を吸う以外にはなにもしていないだろうな。その、男としての尊厳の話だ」

「安心したまえ。恐怖と恥辱にゆがんだ君の顔……それを拝まずにことを済ませるのは面白みがないからね。あのあとはそのまま屋敷まで運ぶことにしたよ。続きを楽しみたいというのなら、私としてもやぶさかではないのだが」


 アルフレッドはその言葉を無視した。幸いにも貞操は守られたようだが、だからといって喜んでいられるような状況ではない。下手にわめきたてると逆に喜ばせてしまいそうだから、この場はつとめて冷静に振る舞うべきだろう。


「俺は今どういう立場なんだ。血を吸われるだけの家畜か?」

「可愛いペットであり、お気に入りの玩具であり、欲望の捌け口でもある。恋人同士にもなれるのではないかと期待しているよ。あくまで君のほうにその気があるのならだけど」

「平然と無茶苦茶なことを言うな。できれば自由の身にしてもらいたいのだが」


「なぜだい。不老不死の実現は錬金術師にとって究極の目的だろうに。いっそ私の伴侶になってしまえば、難しい顔をして実験を繰り返す必要もなくなるんじゃないかな」

「そりゃ興味はあるが、だからといって自分がなりたいわけじゃねえ。俺は偉大な錬金術師として名を残し、世界中の美女を集めてハーレムつくって、誰もが羨む優雅な人生を謳歌する予定なんだ。なにが悲しくて性根のねじ曲がった吸血鬼のペットにならなきゃならんのか」

「傷つくからそんなふうに言わないでくれ。昨夜はあんなに素直だったのに」

「だからそういうところ! 本気でむかつくからいっぺんぶん殴らせろ!」


 寝起きなせいもあり、つい感情的になって声を荒らげてしまった。

 しかしすぐに貧血がたたってベッドに倒れふす。引きこもってばかりの錬金術師はもともとそんなに体力がないのだ。全裸だから余計にみじめである。


「私の立場について説明しておこう。知ってのとおりルヴィリアの領主であり、また吸血鬼の王でもある。より正確には、世界の裏側に潜む神秘や怪異といったものの頂点に立つのが私だ。吸血鬼を名乗る連中は数多いるが、繁華街にいるような半端者たちとは同列に語らないでもらいたい。彼らのほとんどは王の威光にあやかろうとする『騙り』か、かつて存在した同胞たちに食い散らかされたあとの『成れの果て』にすぎないのだからね」


 内容のわりにシンの声音には驕りも謙遜も宿っていなかった。あるがままに事実を伝えているだけ、という印象だ。

 しかし神秘の頂点となると、古い伝承に語られる存在に比類する力を持っていることになってしまう。たとえば大地を揺るがし天を裂く竜や魔神といったような、ルヴィリアの怪談という枠組みで語るにはスケールが壮大すぎる伝説級の化け物。この世界で広く信仰されている聖サングリア教の高尚な神様とは対極に位置する、背徳と堕落を象徴する『絶対悪』──。


 にわかには信じがたい。だが人狼たちの群れを一瞬で焼き尽くした姿を見たあとでは、うかつに否定しきれないだけの説得力がある。


「お前に血を吸われた俺はどうなる? 仮にこのまま吸血鬼のお仲間にされちまったとして、それは人間にとっての猿なのか残飯なのかって話だが」

「いい質問だ。吸血鬼の王から直々に隷属契約を交わされた人間は、求めに応じていくうちに神秘の側に寄っていく。結果として世間でよくイメージされるような吸血鬼に近い体質に変異するが、それは先ほど話したような連中とは一線を画する高位なる存在だ。わかりやすくたとえるなら、血統書つきの猫」

「どっちにしろ最悪じゃねえか。死ね」


 シンはクスクスと笑った。罵倒されてもまったく腹を立てる様子がない。どころか喜んでいそうな雰囲気である。しかも、


「双方の了承によって隷属の契約がなされた以上、『命以外ならなんでもくれてやる』という君の誓いは絶対的な拘束力を発揮する。ひとつ、私のもとから逃げることはできない。ふたつ、いかなるときでも主の求めに応じなければならない。もし破ろうとすれば、首もとにつけられた刻印が地獄のような苦しみを君に与える。正気を失いたいのでなければ、試すことはおすすめしないね」


 思わず冷や汗をかく。再び指先でなぞってみると、首筋に刻まれた凹凸からどくどくと怪しげな波動を感じた。超自然的な代物にロマンを抱くのが錬金術師なれど、このときばかりはそんなものが存在しなければいいのにと考えてしまう。


 あの場でシンに助けてもらえなかったら、自分は今ごろあぜ道の隅で冷たくなっていたはずだ。契約はやっぱりなかったことにしてくれと頼んだところで「なら首を刎ねようか」と返されたとしても文句はいえない。だからといって、このまま籠の鳥として生きるなんてのもまっぴらだ。

 アルフレッドが苦渋の表情を浮かべていると、


「どうしてもいやだ、というなら考えてあげてもいい」

「……本当か?」

「ただし相応の対価は要求するけどね」


 シンは天使のような微笑を返す。いかにも裏がありそうな提案だ。

 だからさすがに今度は、命以外ならなんでもくれてやるとは返さなかった。


「君より価値があるものなんて、この世にひとつしかない」


 アルフレッドは答えを待つ。

 その後に告げられた言葉は、かつてないほど突拍子のないものだった。


「チョコレートだ。私のために、最高のチョコレートを作っておくれ」


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