第一話 1-2
ルヴィリアは二千年の歴史を持つ港町である。セーブル王国のみならず世界中から多彩な才能が集まり、結果として最高学府の王立アカデミーが設立された。
アルフレッドは工房を経営するかたわら講義を受ける留学生であり、その専科はやはり錬金術だ。
今や世界に満ちていたはずの謎や神秘は薄れ、かつて学問の主流であった錬金術は新たに誕生した『科学』なる概念に押し流されつつある。
両者の境界は靄のごとく曖昧で、その差は『この世ならざるもの』の存在を認めるか否かしかない。錬金術なくして文明の発展はありえなかったはずなのに、多くの人々は探究者たちへの敬意を忘れ、時代遅れのペテン師とあざ笑う有様だ。
そんな最中にあって、王立アカデミーはいまだアルフレッドのような夢とロマンを抱えた若人に門戸を開いている。だからこそ父親と勘当同然の喧嘩をして、はるばる異国の地までやってきたわけだが──。
「まずいな。このままだと学費が払えない……」
というより、明日の生活すらままならないほど切迫している。
最優先となるのは住まいの確保だろう。このあたりの土地は海に面しているため冬の夜でもさほど冷えこまないものの、治安のほうがよろしくない。なにせルヴィリアには物取りや野犬だけでなく、他の土地にはいない厄介なものたちが潜んでいるのだから。
幽霊、妖精、水妖、悪鬼、人狼。
長い歴史を持つだけに伝承や逸話のたぐいは実に豊富。彼らを目当てに訪れる民俗学者や霊媒師、神秘主義をこじらせた錬金術師があとを絶たない。
領主が吸血鬼、なんて噂まであるほどだ。交易商人たちの間では『この町で揃えられないものは神様だけ』といわれている。
マエッセンは鼻で笑っていた。しかしアルフレッドは、この世ならざるものの実在を疑ったことはない。錬金術師なのだから当然──というだけでなく、実際に見てしまったことがあるからだ。
ルヴィリアに越してきた初日に。
満月の空を駆ける、夜魔たちの群れを。
青白い炎のような姿を思いだし、つい身震いしてしまう。早く泊まれるところを見つけないと、朝には魂を抜かれた姿で路地に横たわっているかもしれない。
あてもなく町をさまよううちに日は傾きはじめ、通りに連なる酒場や工房の壁、ひび割れたタイルの路地が夕焼けに染まりつつある。
ここからだと富裕層の住む区画が近いし、酒場に行けば気前のいい紳士や貴婦人がいるはずだ。
食事に酒、あわよくば居候としての身分。なんなら相手が人間でなくとも構わない。家に連れこんだ女が朝になると猫に変わっていた、なんて笑い話はルヴィリアで何度も聞いたことがある。
獣とまぐわる趣味はないが、神秘を我がものとするのが錬金術師の本分だ。酒を酌みかわす程度なら大歓迎。吸血鬼やサキュバスといった危険な存在でなければ、むしろツキを呼びこんでくれる可能性すらあるだろう。
アルフレッドは気弱になっていた自分を笑い飛ばすように鼻を鳴らし、手近にあったドアをくぐる。しかしそこは酒場ではなく、最近になって流行りだしたコーヒーハウスと呼ばれる店だった。
茶と青を基調にした店内は上品な身なりの客で溢れかえっているものの、カクテルもワインも浮ついた空気も提供していない。室内に満ちているのは豆を炒ったときの焦げた芳香と、政治や学問についての喧々諤々とした会話だけである。
できれば酔いたい気分だったが、ここだって社交場であることに変わりない。名物のチョコレートドリンクを薦められたが断り、なけなしのコインで一番安いコーヒーのブレンドを頼む。カップを受け取ったところで周囲をぐるっと見まわし、騙しやすそうな客を探す。
すると、見るからに育ちがよさそうな青年が視界に入った。
しかも相手はこちらと目が合うなり、にっこりと微笑んでくるではないか。
「この店でチョコレートを頼まないなんて、もったいないですよ」
「今は手持ちがなくてね。住んでいたところから追いだされたばかりなんだ」
「それはお可哀想に。なんなら一杯奢ってさしあげますけど」
拍子抜けするほどあっさりと目標が達成された。チョコレートが滋養強壮によいことは知っている。口にするのもはじめてだし、出だしの首尾としてはまずまずだ。アルフレッドはこの親切な客から、たかれるだけたかろうと心に決める。
あらためて眺めてみると驚くほどまつ毛が長く、唇は紅を塗ったように鮮やかな色をしている。肩まで垂れた髪と瞳は輝くような銀。肌の色は透きとおりそうなほど白く、あごの細い華奢な顔とあいまって精巧に作られた人形のようにも見える。まるで神々から祝福されて生まれてきたような、美しい青年だった。
中性的な容姿はともすれば頼りなく見えそうだが、上背のある自分と並んで丸テーブルに座っていても目線の高さは同じで、袖飾り付きのカフタンを羽織った姿は実に堂々としている。
生地はサテン、色はボルドー……というより血のように濃い赤か。下に着ているスーツは艶やかな黒だが、カフタンと揃いの金の刺繍がいたるところに施されている。
こんなど派手かつ古めかしい格好で町を歩く度胸には恐れいる。お忍びで夜遊びにきた貴族だろうか。それくらい、浮世ばなれした風貌である。
「私の顔になにかついていますか?」
「いや、自分の面に自信はあったがあんたにゃ負けると思ってさ」
「美しすぎるというのも困りものですよ。誰も中身まで見てくれないですから」
アルフレッドは笑った。悪くない返しだ。しかし見かけほど純朴な青年ではないのかもしれない。コーヒーの湯気で曇った眼鏡をハンカチで拭きながら、さらに探りを入れていく。
「俺は王立アカデミーに通う錬金術師だ。物事の本質を見極めるのが仕事でもある」
「ではあなたから見て、私はどのように映るのでしょう」
「知らない男にチョコレートを恵んでくれる、気前のいい貴族様……ってのは誰だってわかるよな。しかしただの親切心だけでなく、あんたはそれによって新しいことが起こるのを期待している。無作為に種を蒔き、知らない花が咲くのを退屈しのぎに待っているわけだ」
「なるほど。初対面でそこまで見抜くとはやりますね」
「最初に目が合ったとき、実験をする直前の仲間の顔を思いだしたからな」
ちょうどそこで注文していたチョコレートドリンクがカウンターに置かれたので、飲みかけのカップから持ち替える。
ぱっと見た感じでは、さきほどまで口にしていたコーヒーと大差ない。しかし傾けてみると、いくらか粘度が高くどろりとしているようだ。
質素倹約を旨とするアカデミー生の中では、アルフレッドは酒やたばこといった嗜好品にも金をかけるほうだ。とはいえ、たったこれだけの量で鶏肉のソテーと同じ値段だと思うと、さすがに尻ごみしてしまう。
そもそも流通量が増えて市場に出まわりはじめたのもつい最近。それまでは一部の上流階級だけが嗜む高級品だったのだ。目の前の青年は当時から愛飲していたのだろうが……やはり錬金術師たるもの、未知への挑戦はお貴族様の金を使って行うべきである。
「俺の名はアルフレッド。世界を変える予定の錬金術師だ。チョコレート一杯でこの出会いを得たあんたは、いずれ誰も見たことのない花を咲かせるだろう」
出まかせの『本質』を語りつつ、景気よくカップに口をつける。
海を挟んだ南の国から伝来した当初は薬として用いられていたというだけあり、独特の苦みがあとに残る。確かに香りがよく美味ではあるが、舌に残るようなざらつきはいささか不快に感じてしまう。
「ま、こんなものか。あえて騒ぎたてるほどのものではないな」
「お口に合いませんでしたか。ではこちらのドリンクはいかがですか?」
奢ってもらいながら尊大な態度を見せるアルフレッドに、青年はまた別のカップを差しだした。
通ぶって自分を高く売りつける目算だったが──新しいドリンクを飲んですぐに喉が焼けるような刺激を覚え、たまらず吐きだしそうになってしまった。
……なんだこの辛さは。チョコレートは甘くて苦いだけではなかったのか。
「あっはっは! この店のオリジナルは香辛料たっぷりだからねえ。君もまた私との出会いによって、思いもしなかった体験を得られたみたいだな」
青年の口から敬語が消えている。アルフレッドが眼鏡越しにじろりと睨みつけると、相手は目に涙をためながら手を差しだしてきた。
「私はシン。君のような学生をからかって遊ぶのが大好きな放蕩者さ」
つまり最初からいたずら目的だったわけか。
純朴を通り越して幼稚な青年である。
アルフレッドとしては珍しく一杯食わされたものの、不思議なことに腹は立たなかった。マエッセンと馬鹿騒ぎしていた寄宿学校時代を彷彿とさせるからだろうか。騙された屈辱よりも、驚きを得られたことの喜びのほうが勝っている。
それにチョコレートドリンク自体も、辛いとわかっていれば悪いものではない。餌付けされた猫のようにカップをちびちびとすすっていると、
「最初はぎょっとするかもしれないけど、慣れてくると癖になるだろ? 物事の本質を見極める錬金術師なら、辛さや苦さの奥にある複雑な味わいに気づくこともできるはずだ」
「先に言わないでくれないか。今、味について述べようと思っていたのに」
目の端にかかった髪を払いつつそう返すと、シンと名乗った青年は満足げな笑みを浮かべた。やがて我慢できなくなったのか、彼もまた同じものを注文し、ビスケットを頬張る子どものような表情で飲みはじめる。楽しみを共有したいという一点においては、純粋な厚意と見てよさそうだ。
しかし……癖になる味、という言葉はもっともである。
表面はメレンゲのように泡立っていて舌触りはなめらか。舌をぎゅっと締めつけるような強い苦味を感じたあと、ほのかに感じる甘みとともに香ばしい風味がやってくる。それが余韻を残すように去ってから、チリペッパー特有のぴりりとした痺れが迫り、暖炉に火を灯すかのごとく口の中全体に広がっていく。
そうして気がついたころには、カップの中身をすっかり飲み干していた。
「これだけではなんとも言えないな。もうちょっと飲んでみれば、チョコレートドリンクとやらの本質について、見抜くことができるかもしれない」
「なんとも頼もしい言葉ですね。だったら次は、辛くないやつにしてみよう」
調子のいいアルフレッドに合わせて、シンは次々と注文を重ねていく。
バニラや砂糖、ミルクを使って甘く仕上げた定番のチョコレートドリンクから、ジャスミンや少量の竜涎香などを加えた最高級の逸品まで。
付け合わせのナッツ、果実の砂糖漬けを頼むころには、十年来の友人のようになかよく肩を組んで乾杯する。やがてシンから「今晩と言わず気がすむまで私の屋敷に滞在するといい」とのお墨つきをいただくまでになった。
本質を見抜く錬金術師と豪語しながら、アルフレッドは周囲の違和感にまったく気づいていなかった。チョコレートドリンクから漂う甘ったるい湯気が、眼鏡越しに映る景色を曇らせてしまったのかもしれない。
コーヒーハウスの常連客や店員がなぜ、シンと目が合いそうになると慌てて顔を背けるのか。あるいはこの美しい青年の足もとにはなぜ、本来あるはずの影が存在しないのか。
ルヴィリアの別名は、神秘の町。
そちら側に踏み入りたくなければ、近寄らないのが身のためだ。