7.御神の祝福
迎えた彼らの誕生から三陽日目。過陽日のことからルアンには細心の警戒をしながらも、魔法試験を受けた二陽日目には語られなかった呪いやVについて、ついに明かされるのだとカデンツァは朝から好奇心に瞳を輝かせていた。そして精霊による聖星誕生と魔法使いの妖精の任務について明かされた現在に話は戻るのである。
「能力ってさっきの話にもあったけど、ジョシュアやルアンが持っているようなもの?」
ティアサーの問いにルアンはゆっくりと頷いた。
「能力を有する妖精は主に二つに分けられる。呪われし者と授かりし者だ」
過陽日の発作のような怒りと悲しみは姿を消したらしく、穏やかな声で彼は応じた。
「呪われし者は精霊たちと同じ能力を持っている。ぼくは水の精霊が有していた浄化の力。ぼくの双精の妹・ルエナは光の精霊に与えられた天気を操りゆく能力。君らの兄・シュエルは火の精霊に充てがわれた呪いの力。そのシュエルの双精の姉・デュエルは風の精霊に授けられた五感を操る力」
「そしてこのオレは大地の精霊が持っていた力の一つである他人の思考を聴く力」
ジョシュアはルアンの話を引き継ぐと、自慢げに胸を叩いた。
「大地の精霊の力は三つに分かれていて、未来を視る力はクライス家のルジェラが持ってる。残りの一つはまだ発現していないんだ」
「だからベクレル家の四人目が過去を視る能力者かと思っていたけれど——」
ルアンはカデンツァを見るとふっと微笑んだ。
「それは見当違いだったらしいね。どうやら君は呪われし者ではなく、授かりし者。御神の祝福を受けた者のようだから」
「ミカミのシュクフク?」
ティアサーはルアンから発せられたその言葉の意味を理解しようと、その音をなぞるように繰り返した。この言葉を過陽日に盗み聞いたカデンツァも意味まではよく分からず、その答えを得ようとじっとルアンを見つめた。
「精霊に与えられた能力とは異なる力を新たに得ることを『祝福を授かる』と言っているのさ」
「じゃあカデンツァのは新しい能力ってこと?」
「そういうこと。これまで誕生した妖精で祝福を授かった者は、他には女王しかいない」
ルアンの確信を持った物言いにカデンツァは眉をひそめた。過陽日のジョシュアの話では、髪と瞳に色がありながらも思考が聞こえないことから、能力を持して呪われずに済んだ「奇跡」だと言われた。
「でも俺の力が何かはまだよく分かってないでしょ?」
カデンツァは未だ懐疑的だった。自身の能力が一体何なのか、釈然としていなかった。にも関わらず「奇跡」という言葉が一人歩きしてしまっているような気がしたのだ。実際その言葉にそぐう存在なのかも分からないのに。
「じゃあこれならどうだい?」
ルアンが問いかけた瞬間、ジョシュアから目にも留まらぬ速さで何かが放たれた。カデンツァは反射的にそれを弾き返し——ジョシュアの放った蒼い炎は、その手元へと帰った。
「魔法と言うのは——」
戸惑うカデンツァにルアンが切り出した。
「基本的に一方向にしか流れないのさ。その魔法を放つ際、命令した方向にしかね。魔法による攻撃を防ぐには、ティアサーが魔法試験で光魔法を使って氷魔法を打ち消したように、反対系統の魔法を使って相殺するか、同系統の魔法を使って絡めとるか、または血の輪を使う。その三つしか術はない」
ルアンはニヤッと笑うとカデンツァに近づいた。
「けれど君は違う。ぼくの浄化もジョシュの魔法も弾き返した。そうだろ?」
カデンツァは無言だった。言葉が出てこなかったのだ。それが特殊なことであるとも分からなかったから。
「これまで出現した能力は全て攻撃性や時と場所にまつわるものが多かった。防御に関わる能力は初めてのことだ」
ジョシュアの言葉にカデンツァは、つと彼を見遣った。兄は過陽日、[清らかな浜辺]で話した時のように穏やかな眼差しをしている。
「魔法使いの妖精は争いたくて戦うんじゃない。何かを、誰かを守るための手段として他に方法がないから仕方なく攻撃魔法を使う。だが、防御というその天賊の才があるお前には、この矛盾は必要ない。それも含めて奇跡だと話したんだ」
カデンツァの口元が緩んで小さく開いた。声を伴わない音で「奇跡」と呟く。ようやく理解をしたその様子にジョシュアは同調するように頷いた。
「そこでだけれど。その力、どのようにして使っているんだい?」
ルアンの声にカデンツァは彼の方を向いた。距離を詰めていたルアンの顔はすぐ目の前にある。好奇心か興奮か。またはそのどちらにも駆られたその瞳孔は大きく広がり、カデンツァの挙動を一つも逃さんとばかりに彼を捉えていた。
「どのようにって……」
「意識的なものなのか無意識的なものなのか。行使する時にだけ現れ出るのか、常にその身を守っているのか。君にはその力の状態が視えるのか、ただ存在を感じるだけなのか。その力にまつわること全てを教えてくれと訊いたのさ」
気迫ある声で迫ったルアンにカデンツァは思わずたじろぎ、壁へと仰け反いた。彼を逃さんとばかりにルアンは一層距離を詰める。そんな二人を引き離すように、どこからか放たれた光魔法がルアン目掛けて一直線に飛び込んだ。反射的にルアンはそれを避わして、その魔法の使い手——ジョシュアの方を向いた。
「過陽日に話したことをお忘れじゃないだろうな、ルアン?」
彼はじろっと友人を見ると、諭すように話した。
「焦りは禁物。あくまでも今のオレたちの役目はサポート役だぞ」
「あぁ。理解はしているさ」
平たい口調のルアンは不敵な笑みを浮かべる。態度の伴わない言葉にジョシュアは溜息をもらして弟を見遣った。
「こいつのことを警戒したくなるのは分かるが、事情があるだけで、これでも悪いやつじゃない。どうにも興奮の刃がなかなか収まらないようだが、臆せず教えてくれないか?」
カデンツァは頷いて、自身の指先を見つめた。
「きっとこれがみんなには見えてないんだね」
「これって?」
ジョシュアの声に彼は顔を上げて、下ろしていた手を二人の顔の前に掲げた。
「白い光だよ。それが俺の身体を縁取るように包んでいるんだ」
「白い光?」
ティアサーの確認するような慎重さを持った声に頷くと、カデンツァは親指から順に指を折り曲げて拳を作った。
「そう。普段は俺の身体を包んでる。でもこうして力を入れると、白い光の膜は俺を中心に広がって、俺の思い描いた形に変形する」
カデンツァは光の膜を広げた。球形に広がった膜は隣に座るティアサーやすぐ前にいるジョシュアとルアンにそっと触れる。しかし、それに気づく様子のない彼らは、ただひたすらにカデンツァを見つめるばかりだった。カデンツァは力を緩めて縮まっていく膜をただ一人眺めた。膜はソロソロと滑るような滑らかさで彼の身体を再び縁取る。
「見えないかもしれないし、感じられないかもしれないけど、でもこれは確実に存在している。第一と第二の魔法試験で俺はこれに何度も助けられたんだ」
カデンツァは再び視線を兄たちへと移した。目が合ったルアンは視線を外すと、何も言わずにカデンツァの頭の天辺から足先まで、何かを探るようにじっくりと見回す。インファの純粋な好奇心とは異なり、どこか気味の悪い感覚を憶えたカデンツァは、その様子から逃れるようにジョシュアを見た。これまでのように穏やかな微笑を湛えて肯定的な話をしてくれるかと期待して。しかし、兄は穏やかな微笑も肯定的な意見もなく、目を瞑り手を顎に添えていた。部屋はひどく静かで鳥の囀りも聞こえる。陽入戸から差し込む光が部屋の戸口までまっすぐに伸びているおかげで、部屋全体はポカポカと温かい。にも関わらずカデンツァは、どこか寒さを感じてその冷気から身を守るように腕を組んだ。
不意に彼の右肩へストンと重さが掛かった。肩に掛けられた右手はカデンツァの鎖骨を優しく叩く。ティアサーだった。カデンツァは弟の顔を見る代わりにその手を見た。その手の温もりが感じられるだけで、言葉も顔を見る必要もなかった。
「第一と第二の魔法試験で使ったって言ってたけど」
少ししてからティアサーが尋ねた。
「第三の試験では使わなかったってこと?」
「いや、使おうとしたんだけど、使えなかったんだ」
兄からの返答に彼は訝しげに眉根をひそめた。
「それってどういう——」
「浄化対象になるものがあるか視てみたけれど」
ようやく〝観察〟を終えたルアンがティアサーの話を遮った。
「やはり何も見当たらないね。君は?」
彼の問いに呼応するようにジョシュアが閉じていた瞼を開いた。
「探ってみたが、やはり聴き取れるものも思考につながる扉もない。精神魔法も掛けてはみたが——」
彼はカデンツァの様子を見ると力が抜けたようにふっと笑った。
「効いていないようだから、こちらも完全にアウト。ルジェラの予言もなかったことを踏まえると」
言葉を区切り、ジョシュアは笑みを広げた。
「完璧に魔法も能力も効かない結界がカデンツァを覆っている。ということだな」
「それがカデンツァが言うところの〝白い光〟だろうね」
ルアンの言葉にジョシュアは頷いた。
「間違うことなく、それがカデンツァ、お前の能力」
ジョシュアはカデンツァと目を合わせると、そのまっすぐな瞳をじっと見据えた。
「誰にも真似できない唯一の力、結界だ」
「結界——」
カデンツァは再び白い光の膜を見た。
「けれど、妖命樹には効かなかったという先の話もある」
ルアンの声に彼は顔を上げた。
「どこまで何に対して防ぐことができるのか、その強度を高めること、応用することは可能なのかは今後、検証すべき余地があるね」
彼はカデンツァにそう告げると、にこりと微笑んだ。同意するように頷いたジョシュアは、今度はティアサーを見遣った。
「そして、ティアサーの能力は——」
「僕にはそんな大層な力なんてないよ」
ティアサーは撥ねつけるように言うと、腕組みをした。
「僕の魔法試験最後の妖魔は、僕の魔力を丸ごと使って僕の知らない魔法で戦ってきた。相手の力を最大限に使って戦ってくるのが、あの妖魔の特性なんでしょ? つまり、あの時に特別な力を妖魔が使わなかったっていうことは、僕にその力がないから」
「いいや、力はある。まだ目醒めていないだけでな」
すかさず応じたジョシュアにティアサーは片方の眉を上げた。
「そう言い切るなら、説明してくれる? 漠然とした希望的観測じゃなくて、ジョシュアがそう断言する根拠を」
「ああ、もちろん」
一呼吸置くと、ジョシュアは再び口を開いた。
「まず第一に、お前は呪われし者だ。それはお前の髪と瞳が呪われたベクレル家の色と同じことからも断定できる。第二に、お前の思考は聴こえるんじゃなくて、聴くことができる状態だ。同じに思えるかもしれないが、これには大きな差がある」
「ティアサーの髪色が呪われたベクレル家の色なら」
今度はカデンツァがジョシュアに問いかけた。
「どうしてジョシュとは色が違うの?」
「オレはただ……」
何かを言い掛けたジョシュアの口元が音もなく動いた。そのまま口を閉ざした彼は、今度は深い溜息をもらした。
「歳とってるだけだ。オレの髪も一部はティアサーと同じだろ? 元々は全部その色だったんだ。ルアンだってそうだ」
唐突に名前の挙がったルアンは、驚くというよりこの話題で取り上げられたことが不快らしく、静かに腕を組んだ。
「本来のクライス家の髪色は鈍色。残っている一筋の黒い髪が本当の……と言うと語弊があるが、呪われた印となる色だ。それが寿命と共に白亜色に色づいた」
「じゃあティアサーの髪はジョシュアみたいに黒くなるの?」
「ならないことを祈るんだね」
カデンツァの純粋な問いにルアンは突き放すように告げた。
「せいぜい命を大切にすることだよ」
「その髪色の変化についても分かるように順を追って話すから」
「今教えてくれない? 気になるから」
諭すように話したジョシュアに対して、ティアサーはルアンにも負けないくらいの気迫を持って尋ねた。カデンツァとは異なる弟の様子にジョシュアは再びの溜息を吐いた。
「いいだろう。ただし、その前に呪われし存在とは別の呪い、オレたち妖精全員に与えられた呪いについて話す必要がある。でなければ何故呪われて能力を授かることになったのか、その理由を理解できないだろうから」
ティアサーが頷くのを見留めると、ジョシュアは「それじゃ」と仕切り直した。
「精霊がこの地を去り、しばらくの時が流れてからのこと。デュエルとシュエル以外にもいくらか妖精が誕生していた。妖魔は地球の未来と過去に誕生し、精霊たちは妖魔の誕生を天界へと知らせに行ったと話したが、その頃にはもう多数の妖魔が地球にいたと言う。そして、その一部がここ聖星へと乗り込んで来た」
「妖魔がヴェルスヴィーナに⁉」
驚きに声を上げたカデンツァにジョシュアは頷いた。
「妖精たちは戦った。己の持つ力全てを使って。水の妖精も光の妖精も生物の妖精もみんな。もちろんシュエルとデュエルの二人も。妖魔たちは徐々に数が減っていったが、とりわけ強い妖魔が存在していた。ソイツのことをシュエルはカナンと呼んでいた」
カナンという単語が聞こえたのと同時に、ルアンは蹴り付けるように片足を踏み鳴らした。腕を組んだ彼は何も言わず、人差し指でその肘を弾いていた。
「カナンは強大な力を持った妖魔で、実態を持たず他の妖魔に取り憑いて戦っていた。だからその妖魔を倒してもカナンは無傷、すぐに次の替えに取り憑いた。戦いで妖精たちも疲弊し消耗して倒れ亡くなり、最後にはカナン対シュエルとデュエルになっていた。今のままではカナンを滅することはできないと判断した二人は、妖魔が地球から持って来ていた銀の剣にカナンをどうにか封印し、その剣を山中に納めて血の輪の結界で幽閉したんだ。それが現在では[幽閉の山脈]と呼ばれる地で、以来、全ての妖精は銀を毒となす体質として呪われることとなった」
「それが呪われし者と関係なく妖精全員に掛かっている呪い」
確認するように呟いたティアサーにジョシュアは頷いた。
「でも血の輪で封じたって、血の輪を使うと過陽日みたいに別の妖魔が出てくるんじゃないの?」
「過陽日のは魔法試験用にしていたから」
カデンツァの問いに彼は少し笑いを含みながら答えた。
「本来の血の輪は、本当にただ輪内に標的を封じ込める結界。その輪が割れること、破られること、血の輪を作る魔力を提供した術者が輪内に入ることがなければ永続して守られる」
「銀を毒となす体質って、つまりどういうこと?」
ティアサーからの質問にジョシュアはその懐からガラス容器を取り出した。
「いい質問だ。そしてオレが今から見せることがその答えとなる」
ガラス容器から取り出されたそれは、長方形のブロック状をしていた。艶めく表面は水鏡のように周りの物を反射し、青みがかった白とも黒ともつかないその鋼色の中に部屋の様子を写し込む。
「これが俗に銀と呼ばれる物だ。銀自体を触るのは構わないが」
彼は言葉を切ると、ガラスの容器の蓋を外して、先程のブロック——銀の塊を取り出した。
「絶対に血と混ざり合うことのないようにすること」
二人によく見えるようにかざすと、彼はガラス容器の中に銀を戻した。机上に置かれた銀をよく見ようと、カデンツァは好奇心に満ちた表情で、兄の立つ机の元へと歩んだ。少し遅れたティアサーが後を追った。
「さて、どう呪われているのかを示したいところだが——ティアサー。悪いんだが、少しばかり手伝ってくれないか?」
「手伝うって……何をどうすれば?」
ジョシュアは首を掻きながらバツが悪そうに肩をすくめた。
「呪いを見せるには、ほんの少しばかり血が必要でね。魔法使いの妖精は、多少の怪我であれば己の魔力を持って自然と自己治癒をするんだが——」
「今のルアンは魔力が消えているから、怪我を負っても治せない。カデンツァは持ち前の結界に阻まれる可能性が高いから、怪我を負わせることは不可能。そして、魔法は一方向にしか進まないから、攻撃に値する魔法を自分に向けることもできない。カデンツァの結界を頼りに、撃った魔法を跳ね返して受けることはできても、その加減は難しいからってことだね」
「その通り。理解が早くて助かるよ」
ティアサーは腕捲りをすると、手をジョシュアに差し出した。
「ありがとな。それじゃ、ほんの少しだから」
彼は弟の手を取ると、人差し指をその手に向けた。
「風刃吹かれ(シーラー)」
ジョシュアの指先から鎌鼬が放たれる。鎌鼬が辿った細い線を追うようにティアサーの掌に朱い痕が広がった。彼の血は指先へと流れて——一滴、銀の上へと滴り落ちる。
途端に煤のように黒い煙が線を描くように立ち上ると、何かが腐敗したかのような鼻を突く臭気が一瞬にして辺りを包んだ。赤く滴ったはずの血は濃い紫に変わり、ブロック状の銀だった物体と溶けて、ところどころ緑色に反射している。銀はみるみる内に血に溶かされていき、あっという間に毒々しいその液体の一部と化した。
嗅ぐだけで具合まで悪くなってしまいそうな悪臭に、双精は揃って顔をしかめて鼻を袖で覆う。ルアンは部屋の陽入戸を全開にして、臭気を部屋の外へと逃した。
「酷い臭いだろ。銀は一滴の血に触れるだけで溶けて猛毒と化す」
ジョシュアはガラス容器に封をすると、カデンツァとティアサーを見た。
「体内に入ったら無事じゃ済まない。これは毒になった後も血に反応して、流れる血液を全て毒へ変えてしまうんだ。だから何があっても絶対に銀の武器で怪我をせず、不用意に銀を触らないこと」
兄の言葉に歯切れよく返事をするカデンツァに対して、ティアサーは固く頷き、陽入戸から外を見ていたルアンの肩を突いた。
「ねえ、ルアンは何でも浄化することができるんだよね?」
彼は沈黙のままに頷くと、ティアサーの意を汲んで、ジョシュアが机に置き去りにした銀の毒をガラス容器ごと手にした。
「だけれど、できるのはこの状態でのみ。誰かの体内にある銀は、たとえ浄化することができたとしても、毒と共に血の魔力も浄化してしまうから、その者の自己治癒ができなくなる」
ルアンの言葉を聞いてカデンツァは思い出したかのようにティアサーの掌を見た。ジョシュアの魔法によって切られた手は、いつの間にかその傷痕を消している。ほっとしたカデンツァが再びルアンに視線を戻すと、銀の毒が入ったガラス容器の蓋を外すところだった。再び毒の臭気が部屋中に広がる。すぐに鼻を覆ったベクレル家の三人に対して、ルアンは凄まじい臭気も気にならないらしく、毒の上に掌を広げて優雅に動かした。
「浄化によって自己治癒が使えなくなる。つまり、毒自体は浄化されるけれど、傷が治らなくなって、浄化できたとしても、その毒がもたらした怪我により亡くなるのさ」
静かに告げたルアンの指先は毒の中心で宙に触れ、静かに聖なる空気の滴を落とした。波紋が広がると同時に爽やかな風がそよぐ。紫色でありながらも緑に反射していた毒は、その波紋と共に色を和らげ臭いを緩やげ、徐々に色も臭気も消えていった。残ったのは、ガラスと同じくらいの透明さを持った水だった。
「すごい」
感嘆の声を上げたカデンツァは、瞳を煌めかせてルアンを見た。
「すごいね! そんなに危ない毒を浄化できるなんて」
「あぁ。今となっては銀をも毒をも制する浄化の力がある。便利すぎて厭になるくらいさ」
ルアンの言葉にティアサーは片方の眉を傾げた。
「今となっては、ってどういうこと?」
「どうもこうも、この力。ひいては呪いを受けたのは——」
その時、彼らの目の前に大きな泡が現れた。ジョシュアとルアンはそれを目に留めるなり顔を見合わせた。
「それ何?」
「アパレス。緊急連絡だ」
唐突に現れ出た見知らぬ物体に警戒するようなカデンツァに、ジョシュアは端的に答えると泡に触れた。
【ジェシカ・ウィルソンからジョシュア・ベクレルへ告ぐ】
泡から弾けた空気は、誰か女性の声を伝えた。カデンツァはどこかで聞いたようなその声に耳を澄ませた。
【どうしてルアンにアパレスが送れないわけ? まあいいわ、ジョシュ聞いて、緊急事態よ。[誘惑の森]北西部、[神秘の滝]と[蒼の湿原]の間辺りで火事が起きているの。原因は不明、でも自然的発火ではないみたい。今総力を上げて鎮火に当たっているところよ、とにかくすぐ来てちょうだい。それと、どうせ一緒にいるルアンも連れてきて。以上】
割れた泡から溢れ出た声は、それだけ告げるともう聞こえなくなった。