6.希望と奇跡
「それじゃ、女王の栖まで行ってくるから」
ジョシュアは部屋の戸口へ向かう途中で弟たちへ振り向いた。
魔法試験が終了した後、気を失ったままのティアサーを背負ったジョシュアと共に、カデンツァは魔法使いの妖精の樹へと戻った。ティアサーの部屋前で彼の掌をかざして扉を開け、ようやく彼を寝台に横たわせたところであった。初めて入ったティアサーの部屋をキョロキョロと見まわしていたカデンツァは、戸口へと急いだジョシュアの方へ向き直った。
「いいか? 試験後で腹が減っていたら食事処で済ませるんだ。果実の妖精が食べて問題ない果実を収集しておいてあるから、好きなように食べて構わない。ただ、たまに誰も手をつけずに放置された果実がある。そういう腐ったものとかやカビているものは手をつけないこと、後悔しかしないからな」
「分かった」
カデンツァは素直に頷いた。ティアサーはしばらく起きないだろうと、ジョシュアが道中教えてくれたから、彼は弟が目を覚ますまで一人で過ごすことになる。しかし彼は別の心算を働かせていた。
「俺も女王の栖に——」
「それはダメだ」
カデンツァの話を遮ったジョシュアは、部屋の出入り口を塞ぐように戸口に立った。
「付いてくるって言うんだろ? 悪いがルアンの話は、今お前たちが聞くべきではないんだ」
「違うよ、ルアンの話を聞くんじゃなくて、女王の栖がある場所を確認しに行くんだ」
カデンツァはしたり気に笑った。
「任務は女王から言いつかさるんでしょう? だったらその場所を知っていないと」
弟の交渉にジョシュアはくすくすと笑った。彼の思考が聞こえるわけではないが、考えが見え見えなのだ。対してカデンツァはなぜそんなにも笑われるのか分からず、きょとんと首を傾げる。ジョシュアは笑いが収まると、ぐしゃぐしゃと弟の頭を撫でた。
「分かった。そこまで言うなら付いてこい。だが上手くやれよ?」
樹を飛び出し、ホームを後にした二人は南に向かって飛行した。ホームを取り囲んでいた木々が段々と少なくなるに連れて、群れを成していた柔らかな草はその数を減らしていく。代わりに大地を浅黒い砂が覆った。そうして周囲の風景が少しずつ変わりゆくにつれて、温度まで変化しているのをカデンツァは感じた。
「なんだか暑くなってきてない?」
「よく気がついたな」
隣を飛ぶジョシュアは風を切るように腕を広げた。
「太陽と月の位置関係から、地球もとい聖星には季節というものが存在する。地理環境によってどんな季節があるかは種々様々だが、大概が春夏秋冬の四季、または乾季と雨季の二季で分けられる。例えば[追憶の砂丘]は二季だが、[唄う野原]や今向かっている女王の栖がある[輝きの入江]は四季。聖星の中央に位置するホームは四季の中でも春と秋しかない特殊二季だ。現在の[唄う野原]は秋を迎えているから、ホームの季節も秋になっている」
「秋って何?」
「そうだな、場所によって特徴は色々あるが——。今お前は暑いって感じたんだろ?」
カデンツァはこくりと頷いた。
「その暑さが和らいで過ごしやすくなった季節のことだ。緑に生い茂っていた草木も赤や黄色に色を変える。生き物たちは冬の寒さと厳しさに備えて果実を集める」
「冬って寒いの?」
「ああ。凍てつくように寒い。その寒さが解けた季節が春って言われる。輝きの入江は現在、その冬の反対である夏を迎えている。秋のホームから夏の[輝きの入江]に向かって移動しているオレたちが暑さを感じ始めるのは自然なことだ」
「ふぅん」
カデンツァは夏を感じようと両腕を広げてゆっくりと息を吸い込んだ。スピードは緩やかになり、暖かな水面を掌が通るように、柔らかく湿気を帯びた空気が指の間を通り抜ける。夕暮れ時の西陽が二人を焦がすように照りつけた。
「どうして女王は、季節が変わる程遠いところにいるの?」
「ホームで一緒に暮らせばいいのに」と、続けてカデンツァは呟く。
「女王には特別な能力があるんだ」
「特別な能力?」
聞き返したカデンツァにジョシュアは頷いた。
「未来、過去。それぞれの地球で何が起きたのか、起きようとしているのか。それを聞き取ることのできる力。その力のおかげでオレたち魔法使いの妖精は、いつの時代のどこに妖魔がいて、どんな影響を与えているのか知ることができる」
「じゃあ魔法使いの妖精の指揮官って言うのは」
「その能力を持つ彼女だからこそできるってわけだ。まあエレンの能力は感覚的にオレのと近いから、ホームから離れた[輝きの入江]に栖を構えるのも理解できる」
「どういうこと?」
ジョシュアはまっすぐ前を向いたまま飛び進んだ。速度差ができていた二人は今、隣同士ではなく斜めに並んで飛行している。ジョシュアの斜め後方を飛んでいたカデンツァには、兄の顔が見えなかった。
「とめどなく誰かの声が聞こえる。独り言だったり、くだらない考えだったり、とんでもなくハッピーな誰かの歌声だったり、何か嫌なことに対する悪態だったり、色々な。例えその場にいる誰もが口を閉ざしていても、だ。否が応でも聞こえてくるそうした思考にいちいち付き合っていたら、聴いてるこっちが滅入っちまう。それに加えて、聴こえてくる思考とは別の会話が口からは溢れ出る。疲れるものさ、能力に付随するものに付き合うのは」
くるりと姿勢を変え、仰向けになったジョシュアはカデンツァを見て穏やかに微笑んだ。
「お前といるのはいいな。穏やかな気持ちでいられる」
彼は過ぎゆく大地に背を向けたまま、大きく伸びをすると首を逸らした。彼らの眼下の様子はまた大きく変わっていて、乱立する木々の向こうに西陽を反射する輝かしさがあった。
「海が見えてきたな」
ジョシュアは顔を上げてカデンツァを見遣った。
「少し降りてみるか」
まばらに立っていた木々も姿を消し、白くなった砂浜は夕陽で温かみを帯びた色彩を宿していた。生き物の声も飛行中に耳を掠めていく空気の音もしないその場所は、落ちていく光をキラキラと受け止める。波は静かに引いては打ち寄せ、その白模様を輝きの中に溶かしていく。空は海と溶けて混ざり合い、天地も打ち消した静かで雄大な景色が広がっていた。
「美しいだろ?」
兄の言葉にカデンツァは静かに頷く。
「ここは[清らかな浜辺]。その名を冠する通りの場所だよな。女王の栖がある[輝きの入江]はもう少し先にある。まあ今ここに寄ったのは、この場所の美しさを語らうためではなくて——」
ジョシュアは海に向かって手を掲げると、誰かを手招きするようにその指先を動かした。浜辺へと打ち寄せた波は、水平線の彼方へと引き寄せられるその大いなる海から切り離されて、向かい合ったカデンツァとジョシュアの間を漂う。透明なその海の子どもは、夕陽の光をキラキラと反射して、大地に輝く水面の影を落とした。
「自分の姿、見てみたいんだろ?」
「——え……?」
思わぬ言葉にカデンツァは驚いて瞬きをした。
『たしかにティアサーとどう違うのか気になっていたけど。だけどジョシュアには俺の思考は聞こえないはずで——』
そんな彼の思いも汲み取ったのか、ジョシュアはふっと笑った。
「たしかに思考は聞こえない、が、様子を見ていれば分かる。お前は分かりやすいしな」
穏やかに微笑む兄にカデンツァはキョトンと首を傾げる。一方でジョシュアは仕切り直すようにわざとらしく咳払いをした。
「ティアサーの魔法試験で感じただろう、見るという行為には適切な量の光が必要だと。精霊たちの造りしこの世界の法則では、光自体に全ての色が内包されていて、オレたちが認識する色というのは、光が当たった時に跳ね返された光の色なんだ。お前の着ている上着が群青色なのは、群青色の光だけを反射しているから。そして全ての色を跳ね返すと光の色は白く見えて、全ての光の色を反射せず吸収した場合は黒く見える。ここまで分かったな?」
ジョシュアの問いにカデンツァは頷いた。
「それでは、この透き通るような透明度を持つ水は何色だ?」
ジョシュアの問いにカデンツァは戸惑った。その水自体が色を宿しているわけではない。水自体は青くも黄色くもなく、ただその向こうにいるジョシュアの姿を映し出している。湾曲したその向こう側でジョシュアは不敵な笑みを浮かべた。
「色がない、わけではない。だがそこにはまるで何もないかのように、その先の風景を映している。それは光が反射することなく、まっすぐに水を通り抜けているからだ。つまりこの光が進む方向を変えると——」
ジョシュアはまた指先を動かした。水はキラキラと煌めいてその様子を違えていく。
「水はその向こう側ではなくて、対面した側の風景を映す」
水に現れたのはカデンツァの姿だった。少し彫りの深い通った鼻筋に尖った耳。驚きと戸惑いに困ったように顰めた眉。首筋までは届くものの、肩には掛からない長さの髪は左右に跳ねて、その額の一部も隠す。くっきりと開かれた目はその目頭に特徴的な彫りを宿していた。
「これが……俺?」
手をのばしてそっと触れる。水鏡の中のカデンツァも指先をこちらに向けて——触れ合った振動で水面は幾重もの円を描いて表を揺らがせた。しっとりとした空気が熱を帯びた風に吹かれて、さらにその温度を高める。額から頬を通って首筋へと伝った汗は、じっとりとその痕を濡らした。水鏡に映っているのは紛れもなく彼自身。そしてその姿は目の大きさや髪の長さまでもティアサーと瓜二つだった。たった一つの要素を除いて。
「髪だけじゃ、なかったんだ」
亜麻色の髪に青磁色の瞳。そう、彼には色があった。鮮やかで豊かな美しい色彩が。彼の弟にも兄にも、ついでに言えばルアンにもなかった色が彼には存在した。
青磁色の瞳は震えていた。水鏡はピンと張ったまま、静かに緊張を紡いでいる。その水面が揺らいだわけではなかった。震えていたのは水鏡の中の虚像ではなくて、実像の方だった。いくら形が同じでも、色による違いは明確だった。インファの話していた「逸脱」という言葉の意味を今、カデンツァは身に染みて理解したのである。
「そう、お前には色がある」
ジョシュアは水鏡の横を通ってカデンツァの隣に並んだ。優しく弟を見つめるその瞳は薄墨色をしていた。ティアサーの瞳と同じ色を。
「素敵なことじゃないか。何を嫌がる必要がある?」
カデンツァは少しの間無言だった。何も言わずにじっと水鏡に映ったジョシュアを見ていた。短く刈り込んだ髪は、瞳と同じ薄墨色。尖った左耳に掛かる髪はティアサーと同じ透明感のある美しい雪花石膏色。たしかに特徴的な目頭の彫りや、少し高い通った鼻筋は彼ら三人の骨格が同じような造形であることを示唆している。だからこそ彼は嫌だった。見れば見るほど自分だけが不純な存在に見える。寂しさや虚しさという悲しい感情を彼は初めて味わった。
「あのなカデンツァ」
ジョシュアは水鏡をじっと見つめる弟の肩に手を置いた。カデンツァは水鏡の中のジョシュアから、自分自身の肩に置かれた手を見た。その先を辿って動いた視線はジョシュアの瞳を捉える。
「色を認識する理論を何のためにさっき話したと思う? どんな色であっても本を正せば光に内包されている無数の内の一つなんだ。数えきれないほどある光の色の内、どれか一色を跳ね返すか、全てを跳ね返すか、全てを跳ね返さず吸収するか。それだけのことだ」
「でも——」
「第二に、オレやルアンの髪と目の色が、黒っぽかったり白っぽかったりするのは、呪いが掛かっているからだ」
「呪い?」
意味が分からず聞き返したカデンツァに兄はこくりと頷く。
「ベクレル家とクライス家は代々能力を授かる代わりに呪われる。ティアサーの髪や目も同じ理由だ。レベッカってさっき会っただろ? あいつらウィルソン家は呪われていないから、色なんてバラバラさ。だからむしろ、能力を持して呪われていないお前は奇跡なんだよ。インファの言うように」
まだその言葉の意味が明確に分からなかったカデンツァは、ゆっくりとその意味を咀嚼するように呟いた。
「奇跡……?」
「そう。それも未来を視ることができる能力を持った妖精にも、お前の誕生は視えなかった。通常ならありえないことだ」
ジョシュアは口端をクイっと上げて得意げに笑んだ。向き合ったカデンツァのもう片方の肩に手を乗せて両手で彼の肩をポンポンと叩く。
「それにな、ヴェルスヴィーナには色んな妖精がいるが、その美しい亜麻色の髪を持つのは、お前の他には女王だけ。それと、その目の色は呪いに掛かる前のベクレル家が宿していた色と同じだ。だから誰が何を言おうと、どう思われようと、お前はお前の素晴らしさに胸を張って生きればいい。分かったな?」
カデンツァは頷いた。奇跡という言葉の意味が、その重さがまだ分からなかったけれど、それは喜ばしいことなのだと感じられた。
カデンツァは水鏡に再び目を遣った。水面は先ほどまでと色も形も違えることなく、並んだ二人の兄弟を映している。異なったのは、曇っていた弟の表情が晴れたように見えることくらいだった。
「それで、さっき話してた呪いって? どういうこと?」
カデンツァは隣を飛ぶジョシュアに尋ねた。再び高度を上げた二人は、女王の栖へと一直線に飛行している。ジョシュアはチラッとカデンツァを見ると、ふっとその口元を緩めた。
「簡単に言えば、さっき話した通り。ベクレル家とクライス家は呪われていて、それ故に能力を持っている。きちんとした説明は未陽日な。ティアサーにも話さないといけないし、それにほら」
ジョシュアはすっと水平線の向こうを示した。
「もうすぐ目的地に着くから」
[輝きの入江]は既に水平線へ身を隠し始めた太陽の光を受けて、キラキラと輝いていた。その海の窪みに優雅に佇むのは、ガラスでできた女王の栖。栖を造った者はこの入江の輝きや、海との調和性を重んじたと見える。華美な装飾があるわけではないものの、前方に臨む海や砂浜はもちろん、夕陽の光すら溶け込んだ栖は、息を呑むような美しさを備えていた。地面に対して垂直ではなく、緩やかな曲線を描いて建っているさまは、まるで大地からしっかりと立ち上がっているかのようにも見える。
「すごいだろ? 炎の妖精と大地の妖精、そして光の妖精による力作さ」
栖を前に小さく口を開けて、その美しさに見惚れていたカデンツァに対して、ジョシュアは得意気に言った。カデンツァは勢いよく頷くと、興奮に瞳を輝かせた。
「どうやって造ったの?」
「大地の妖精がこの入江にある砂を使って、大枠の形を造った後に炎の妖精が砂を溶かしてガラスにしたんだ。そしてできたガラスを三層に分けて一番内側の壁、二階の寝所へと繋がる部分の壁、一番外側の壁を造って、栖を形造った。最後に光の妖精が調整をしてできたんだ。[輝きの入江]が一番美しいこの夕暮れ時に最もその価値を高めるように」
カデンツァはゆっくりと頷いた。栖はエレガノ女王に相応しい優雅さと気品も兼ね備えていて、いつまでも見ていられる。しかし、今の彼らにはその時間がなかった。
「さて、それじゃ女王の栖への道案内も終了ってことで」
未だその美しさに見惚れている弟に向かって告げると、ジョシュアは栖の戸口に立った。
「オレはルアンと話してくる。いいか? 陽が沈み切る前に帰れよ?」
「分かった!」
やけに歯切れのいい返事にジョシュアはふっと笑うと、再びカデンツァの頭をわしゃわしゃと撫でた。何故そんなことをされるのか分からないまま、撫でられたカデンツァが頭を上げた時には、もう既にジョシュアはいなかった。軽く開いた扉はゆっくりと閉まり、その向こう側へと兄が行ってしまったことを告げている。カデンツァは水平線の彼方へ沈む太陽を見た。もう既に半分近くその姿を隠している。もちろん、カデンツァには今すぐにホームへと帰るつもりは全くなかった。そもそもジョシュアに付いてきた目的は、ルアンの話を聞くことだった。[唄う野原]へ向かう道中にインファから聞いた〝V〟について、何か分かるかもしれないと思ったからだった。彼は扉に手を掛けると、すべすべとした滑らかなその曲面を押した。
扉を開けて入ったすぐのその場所は、こぢんまりとした小さな円形の空間で、正面にはアーチ状の扉があった。扉は透明で足元へ近づくに連れて乳白色に色付いている。カデンツァの背中で閉まっていく入口の扉が床に光の模様を描いた。まるで水面をたゆたう煌きのように優美さを宿している。暑さが緩やかになった屋内は快適で、カデンツァは首筋に伝った汗を拭った。正面に見える扉から透けて見えた向こう側にもジョシュアの姿はなかった。案の定、その先の空間にジョシュアがいることもなく、またしても円形の空間と一枚の扉があるのみだった。前の空間と異なることを挙げるとすれば、その円を左右に伸ばしたかのように、左右に細く通路が続いていること。そして扉の色が全て乳白色になったことだけである。
『ジョシュアの話だと、この通路の先が女王の寝所に繋がるはず。となると、この扉の先にきっとみんないる』
カデンツァは息を潜めてその扉にそっと手をかけた。
「——たり鳥の背に乗せてもらったのさ」
扉をほんの少し開けた瞬間に聞こえたのは、ルアンの声だった。
「まさか君がこんなにも遅い到着になろうとは思わなかったから」
「残念ながらオレも暇じゃなくなっちまったんでな」
どこかピリついた声色のルアンにジョシュアが応じる。少しの静寂の後に咳払いが続いた。
「それが今回の話の内容なのかしら?」
落ち着きのある毅然とした声が響いた。女王の声だった。
「違うと言うのならば、早く本題に入りましょう。これ以上夕闇が目を醒まして、あなた方の帰路を消してしまう前に」
カデンツァは扉をそれ以上開けないよう充分に気をつけて、耳をそば立てた。誰かが溜息のように深い息を吐いた。
「今回の魔法試験を、貴女はどのように見まして?」
「多少危ないところはありますが、最初の魔法試験にしては上出来ではないかと」
「上出来、ね」
穏やかな調子で答えた女王に対して、ルアンは軽くあしらうような声だった。
「君は? ジョシュ」
再び聞こえたルアンの声。一瞬の静寂が部屋を包んだ。
「出現魔法から考えるに、カデンツァは想像力による魔法の使い手だろうな。計算性に欠いている戦闘からも想像力の方が強いことが分かる。だが、その分瞬発的な魔力は非常に高く、あいつの持っている特殊な能力が上手く合わさって、欠点をカバーしている」
聞こえたジョシュアからの自分への評価にカデンツァはほっと息を吐いた。魔法試験の後に注意はされたが、そこまで技量が悪いわけではないらしい。
「対してティアサーは真逆だ。現象理解による魔法を得意とし、何より妖魔に合わせた戦術的な戦い方をする傾向にある。カデンツァのように突出した才があるとすれば、状況判断による策略的行動を即座に取れるところだろう。二人で組めば互いの欠点を補い合える良いコンビになるだろうな」
カデンツァの口元が緩んだ。ティアサーも充分に褒められたばかりか、二人で組めばより良いとも言われたことが嬉しかったのだ。
「ただ、カデンツァは気を抜いて妖魔に喰われかけ、ティアサーは妖魔の打倒に重点を置きすぎて、自らの身を危険にさらす傾向がある。その点はどちらもあまり褒められたことじゃないな」
ジョシュアはそう締め括った。最後の厳しい意見にカデンツァは項垂れる。やはり試験後のお咎めは帳消しにはならないらしい。
「そんなにお優しい評価なのは、弟だからなのかい?」
ルアンの棘ある口調が刺すように空間に響いた。
「何が言いたいんだ?」
どうやら彼の態度にはジョシュアも反意的らしく、再び緊張が糸を張った。
「期待値が高すぎた、と言うべきなのかな」
呟いたルアンは溜息を漏らした。
「たしかにカデンツァの能力は素晴らしいものだ。当人にその使い方と効果を確認する必要はあるが、間違いなく精霊には与えられなかった能力であり、彼の髪と瞳は呪いから解放されていることも暗示している。間違うことなく、御神の遣わし奇跡・祝福を受けた妖精だろう。けれど、ティアサーは——」
「呪われし存在だ。オレたちと同じ」
ジョシュアはルアンの言葉の先を遮った。
「そして何らかの能力を有している」
「何らかの、か」
ルアンの笑い声が響いた。それは明るい笑い声ではなくて、打ちひしがれた者が天を睨むような虚無感を持っていた。
「それだけの存在にすぎない」
「ルアン、その表現は慎むべきではありませんか?」
落ち着いた女王の声が窘めるように告げる。再びルアンの嫌な笑い声がカデンツァの耳に届いた。
「エレン。思わないか、感じないか? 砕け散ったこの希望を!」
感情の節度が外れたのか、冷静で落ち着いているルアンから発されたとは思えない程、昂った大声が響き渡った。
「ルジェラの予言では『その者はベクレル家の五人目。それ以降には強すぎる呪いのせいで誰も誕生することすらできなくなる』らしいじゃないか! その予言からどれだけ待ちわびたことか……! いや、予言からではないな。シュエルがその身を捧げたのは何のためだったって言うんだ? あいつが自らの命を捧げて、余命を削ってまで呪い願ったVは、待望のVはティアサーのはずだった!」
「ルアン——」
「それなのに、彼からは能力のカケラすら感じられない」
宥めようとしたジョシュアの声を遮ってルアンは続けた。
「最初は使い方が分からないだけじゃないかと思っていた。だから魔法試験でミラージュが相手になった時、その力の真価を見ることができる絶好のチャンスだと思った」
彼の声は震えていた。さっきまで大きな声を上げていたとは思えない程、か細い声色で。
「なのに、ミラージュですら能力を使った攻撃も防御も、何一つしなかった」
シンと静まり返る空間。震えるわずかな空気の振動だけが微かに聞こえるばかりだった。
「ルアン、大体貴方が何を話したいのかは分かりました」
穏やかな声色で女王は告げると、一呼吸間を置いて続けた。
「しかしながら、ティアサーはまだ誕生間もない新精です。その彼を咎めるようなことも、このような話をすることも、厳しいのではありませんか?」
「相変わらずお優しい方ですね。兄のカデンツァは自身の能力の使い方も魔法試験を通して体得していったと言うのに。何らかの能力を持ったティアサーは、まだ自分が能力者であることも気がついていない。本当に能力者なのかも疑わしい限りだが」
「ルアン、お前少しは——!」
「あの三人の話を聞きたい気持ちは分かるけど」
唐突に聞こえた声にカデンツァは驚いて振り向いた。
「あまりお勧めはしないわね。トラブルの種を自ら刈り取りに行くようなものだもの」
栖の入り口側には一人の妖精が立っていた。頭部の高い位置で二つに結いた髪が背後からの光でその輪郭を描いている。結かれた浅緋色の髪が肩まで流れていることは分かったが、逆行で陰となったその顔は見えなかった。
「任務報告に来たわけだけど、これだけ揉めてるようじゃ時間かかりそうだし、あたしは先に戻るとするわ。気づかれて面倒にならないようにしなさいね」
それじゃ、とすぐに背を向けると、カデンツァが声を掛ける隙もなく、彼女はあっという間に行ってしまった。
謁見の間からはまだ口論する二人の大きな声が響いてくる。カデンツァはもう行ってしまった彼女の後を追うように、栖の出入り口に通じる扉を開いた。小さな空間を二つ抜けて出た栖の外にも彼女の姿は既になかった。
夕陽も沈んだらしく、既に辺りが暗くなり始めている。ジョシュアとの約束を思い出し、カデンツァは急いで栖の中へと引き返した。
ティアサーに対してルアンは酷い物言いをしているんだと、ジョシュアやエレガノ女王の態度で感じられた。しかし、なぜそんなことをルアンは言うのかカデンツァは不思議でならなかった上、Vについては謎が深まるばかりであった。約束を破るつもりはなかったが、最後にもう一度話を聞いて、ルアンの真意を確認したかった。
再び謁見の間へと通じる扉の前にカデンツァが戻った時には、既に口論は終わっていた。静まり返った空間で微かに聞こえたのは、誰かが啜り泣くような僅かな空気の微動だけだった。
「分かっているさ、ぼくだって」
ルアンの声は震えていた。もうその口調に嫌な強みはなかった。
「誕生からわずか二陽日目であそこまで戦えるのはすごいことだし、新精に最初から多くを求めすぎてはいけない。けれど」
息が詰まったかのように、ルアンの声が不意に途切れた。代わりに聞こえたのは、声にもならない空気の微動。憂いを帯びた嘆きのように深く漏れた溜息。
「あれから何百周季と経ってしまった……。もうぼくには、時間がないんだ」
「時間がないのはオレも同じ」
ジョシュアの宥めるような優しい声が聞こえた。
「だから無駄にできる時間もミスできる余裕もない。下手に焦っても後悔しか残らないのは、よく分かっていることだろう?」
「たしかに君の言う通りだけれど——」
「それにティアサーにリンクした時、少し異質なものを感じた」
「異質、と言いますと?」
ジョシュアからの唐突な発言に女王が問いかける。
「通常、リンクするには繋がろうとする相手の思考の扉を開ける必要がある。普段聴こえる思考はその扉から漏れ出ているような感覚かな。カデンツァにはその扉が存在しないから聴こえもしない」
「なるほど、それで?」
「普通その扉は何の抵抗もなく簡単に開けられるが、ティアサーのは違った。あいつのは——鍵が掛かってるイメージだ。鍵が掛かってて何とか鍵を開けたら、扉がとてつもなく重かった。ただでさえリンクは疲れるが、その鍵と重さのおかげで余計に疲弊する。もしあの時ミラージュの攻撃がなかったとしても、あれ以上リンクを続けるのは難しかっただろうな」
ジョシュアはそこで言葉を区切った。誰も一言も発さない妙な沈黙が、空にぽっかりと浮かんだ雲のようにゆっくりと過ぎていく。
「だからオレは信じてる。ティアサーにはあいつ自身やミラージュも気づかなかった能力が眠っているんだと。それがVとしての力なのか、それとも別の何かなのかは分からないが、大切なのはその力が露見した時にどうやってそれを補助するかだ。Vであってもなくても、戦いを優位に進めるためのコマじゃない。オレたちベクレル家の、魔法使いの妖精の一員なんだ。それだけは忘れないでくれ」
カデンツァは開け放していた扉から栖の外を見た。オレンジや赤い光に満ちていた外は、今では深い青色の光に照らされている。彼は耳を立てていたその戸口を閉めると、そっとその場を後にした。