4.魔法試験Ⅱ
瞼を閉じたカデンツァは、ゆっくりと空気を吸い込んだ。颯の如くその鼓動を早めていた心臓が少しだけそのペースを緩める。息を吐いた音が身体全体に響き渡った。そんな感覚を覚えた。緊張からか、血の気が引いた指先は冷たく、キーンと耳鳴りがする。彼はそれらを振り払うように頭を振った。もう一度深く息を吸い込むと、ゆっくりと整えるように息を吐く。どんな相手が現れるとしても、今回の魔法試験は魔力を測るだけではない。自分の素質が試される機会なのだ。
瞼を開けたカデンツァはじっと血の輪の向こうを見据え、輪の中へと一歩踏み入れた。
砂埃が舞った。少なくともカデンツァの目にはそう映った。舞った砂埃の中央では旋風が生まれ、向こう側も見えないほど濃くなっている。何かが現れたのだと彼は悟った。
その時、砂埃の中で何かが黒く光って咄嗟にカデンツァは宙へと飛び出た。さっきまで彼がいた場所からは煙が立ち込め、異様な臭いが彼の鼻を突く。静まった砂埃の中から現れ出たのは、ムカデとサソリが融合したかのような姿の妖魔だった。地面に刺さった尾を抜くと、妖魔はそれを周囲に振り回す。腐った卵のような鋭い異臭のする霧があっという間に地表を覆った。カデンツァは足元まで届き始めた霧を避けるために更に高く舞い上がる。彼の直感はそれがただの霧ではないと声高に警告していた。撒き散らした濃霧でその姿を隠した妖魔は、再び彼を攻撃しようと今度は宙に向かってその尖った尾を勢いよくのばす。彼はその攻撃と次第に宙へも迫ってくる霧から逃げながら、この妖魔を倒す手段を考えていた。
『レベッカは一瞬で倒してた。女王がこの妖魔を感じ取ったときには、そもそも姿すら見えていなかったけれど、もしかしたらあの時から既に何か仕掛けていたのか?』
考えている間にも妖魔は攻撃を仕掛けてくる。彼はそれを避わし、足下へと忍び寄る濃霧から逃げていく。
妖魔の動きを読むのは意外と簡単だった。いくら高く宙へと逃げてもその尾を伸ばしてくるので、本体がどこにあるのかが推測できるのだ。その上、いかに攻撃が速くても距離があるから攻撃を放ったその瞬間に動けば避わすことは容易だった。問題は足元に迫る霧。これについては厄介だと彼は判断していた。彼の直感はそれが有害だと告げている。少しでも霧が足先に近づくと、凍るような寒さを感じたのだ。
ふと彼は違和感を覚えた。妖魔の攻撃が止んでいる。霧は相変わらず濃いままだが、尾での攻撃がピタリと止んでいた。
『つまりこれは——』
次の瞬間、数十発もの黒々としたダイヤ型の飛礫がカデンツァを襲った。彼は反射的に後退ると、肩に置いていた手を身体の前へと広げて——。
何をしようとしたのか、実のところ彼自身も分からなかった。ただ身を守ろうとしてとった行為がそれだったにすぎなかった。だが、結果としてその行為は彼の身体を守ったのだ。彼を襲った黒々としたダイヤ型の飛礫が一斉に弾き返され、地面へと次々に突き刺さったのである。
自分の成したことに戸惑うのも束の間、カデンツァは自身の腕が熱を帯び始めたことに気がついた。それも指先は燃えるように熱い。
『そういえば、レベッカはさっき……』
カデンツァは掌を見つめると、レベッカがしたように指を鳴らそうとした。最初は上手く出来なかったが、二、三回指を動かしてようやく鳴ったその時、火花が広がった。鳴らした指先から飛び散った火花は火の粉を零して消えていく。もう一度指を鳴らした彼は、今度は指を広げずにそのままの形を保った。すると、人差し指と親指の間から炎が生まれ、指先に留まった。掌を広げると、炎は火花と火の粉になって消えていく。
真一文字に結ばれていたカデンツァの口元が綻んだ。妙案を思いついたのだ。
妖魔から再び黒々とした飛礫が放たれた。それらを全て跳ね返しながら、カデンツァは地面に向かって一直線に飛んだ。霧の中に入る直前で静止した彼は、指を鳴らして炎を作ると、目一杯息を吸い込んで思い切り吹いた。指先にあった小さな炎が一気に巨大化し、その先にある霧へと身を投じるように流れて一瞬で霧を包み込む。
霧と一体化した炎はパチバチと音を上げて、緑や紫色へと色を変えていく。炎の波から逃れるようにカデンツァは高度を上げた。猛烈な熱風が吹き付けようという時、彼は再び身を守る構えをしてその風すらも押し返した。押し戻された熱風は炎を消し、妖魔のいる大地へと真っ直ぐに向かいながらも空気へと溶けていく。黒々とした煙が消えた後に残っていたのは、妖魔の外甲だけだった。
カデンツァは地面へと舞い降りると、その外甲に近づいた。もしかしたら亀のように、その外甲の中に妖魔が隠れているかもしれないと思ったのだ。しかし、彼が近づいた途端、妖魔の外甲はフッと消えてなくなった。魔法試験の第一の試験が終わったのだ。
ほっと息を吐いたのも束の間、カデンツァは何かに首を絞められたかのように息苦しくなった。第二の試験は間髪入れずに始まっていた。
カデンツァは息をしようと必死だった。どうにかしてこの見えない手によって掴まれている首を自由にしようと足掻いた。しかし、いくら首元にあるはずの見えない手を掴もうとしても、触れるのは自分の首だけ。何かがそこにあるという感覚は一切なかった。それでも喉は絞め付けられ、酸素を失った肺は潰れた風船のように収縮していく。見えていた視界が徐々に霞んで、黒と白の光がチカチカと光り始めるのと同時に頭の奥がぼぅっとした。意識が遠のいていく中、カデンツァは必死に妖魔を探した。しかし、灰色掛かった視界の中にそれらしき姿は見当たらない。身体中から力が抜けて立っていることもままならなくなった彼は、崩れ落ちるように倒れた。それでも首を絞める力は緩まなかった。
暗がり始めた世界が、黒と白の光がチカチカと煌めいていたはずの彼の視界が突如暗転した。無意識のうちに瞼が閉じたのか、何も見えなくなったのかすら彼には分からなかった。けれど、真っ暗なその世界でカデンツァには唯一あるものが視えた。自分の身体の輪郭。それが白く縁取られたかのようにくっきりと視えるのだ。視線の先にある自分の腕や手の輪郭が彼には視えた。その周囲にあるはずの草花も天地も影も何も見えないのに、自分の輪郭だけが視えた。そして目の錯覚か、輪郭が小刻みに震えているように視えた。
『もし、これが俺の身体を示すんじゃないとしたら』
意識もぼやけたぼぅっとした頭でカデンツァはふと思った。
『これは何になるんだろう?』
カデンツァの身体は血の輪の中央で倒れていた。動くことも、それまでのように何かに抗うような素振りも、苦しむような様子もなく、バタリと倒れて静止していた。固唾を飲んで見守っていた妖精たちもソワソワとし始めた。第一の試験で炎を使って妖魔を倒した後、突然苦しみ始めたカデンツァが遂に倒れてしまったのだ。彼らの目にも妖魔の姿は見えず、何が起きているのか挑戦者であるカデンツァ以上に誰も分からなかった。場内に横たわるカデンツァを心配そうに見つめるのは女王も同じだった。唯一様子が異なったのは同じ魔法使いの妖精であるジョシュアとルアンだけ。この妖魔の特徴も知っているらしい彼らは冷静に状況を見ていた。その隣でティアサーは横たわるカデンツァを凝視していた。兄を想うあまり力んだ腕がわなわなと震えている。彼はキッとジョシュアへ視線を走らせた。もし万が一このまま起きなかったら……そう考えるとゾッとしたのだ。しかし、血の輪全体を見据えていたジョシュアは、不意に緩やかな笑みを広げた。ティアサーがその様子に気づき、視線を戻したその時、カデンツァは既に立ち上がっていた。
カデンツァは腕をピンと伸ばして虚空を掴んでいた。解放された喉が空気で満たされようと焦って息を吸うせいで、ひどく咽せる。ようやく落ち着いた彼はゆっくりと呼吸することを心がけながらも荒い息を吐いた。血の気が引いて冷たくなり始めていた指先にまでドクドクと血液が循環していくのを感じた。唐突に立ったせいで今度は真っ白に染まってしまっていた視界が薄らいで、徐々に現実を取り戻そうとしていた。それでもカデンツァには自身を縁取っていた輪郭のような膜が視えた。その膜は今、彼の意思通りに広がって血の輪内にいる妖魔を捕らえている。実際に触れているわけではないのに、不思議と彼にはその妖魔の大体の大きさと位置が掴めた。
妖魔の元に近づくと、彼は虚空を掴む手に更に力を込めた。妖魔を包んでいた膜が更に妖魔へと近づく。そのまま妖魔をその膜で押し潰そうと彼は一層力を込めた。しかし、膜はそれ以上動かない。
カデンツァは眉をひそめた。
立ち上がる直前、彼がしたのは膜を広げてみることだけだった。もしもあの輪郭を縁取っていた膜が自身の身体を示すものではないとするなら、それは彼を覆う何か別のものということになる。カデンツァは最初、その膜こそが妖魔の仕掛けた圧力魔法なのだと考えた。膜の位置を変えることで圧力魔法のかかる範囲を変えたのだとしたら、自分が感じた首を絞められたような息苦しさから解放されたことにも納得できた。けれど——。
『そもそも俺が仕掛けた魔法じゃないのにどうして操れたんだ?』
疑問に思いながらも彼はその手を緩めなかった。どういう理屈か圧力魔法の調整はできている。それは事実だった。
膜を操るために力を込めていたカデンツァの手に掛かっていた負荷が不意に解けた。膜の向こう側で妖魔が動く気配を感じた彼は、手に込める力を緩めることなく防御の構えを取る。次の瞬間、妖魔から膨大なエネルギーが放たれた。それを察知したカデンツァは第一の試験と同じようにその魔術を跳ね返した。
一瞬にして妖魔の気配が消えた。目には見えないけれど、膜の向こう側に何かがいる様子もない。
カデンツァは警戒しながらも掌に込めた力を緩めた。膜は消えることなく、再び彼の輪郭を縁取り始める。カデンツァは妖魔のいた方へと歩みを向けて——何かに足を取られ、宙で逆さ吊りになった。彼は驚くと同時に失笑した。第二の試験がどうやら終わったようだと、新たな妖魔に捕まってから気がついたのだ。
第三の試験の妖魔はこれから魔法試験を受ける度に必ず戦うことになる自分の弱点を突く相手。エレガノ女王は確かにそう言っていた。
逆さになった世界を見ながら、カデンツァは一人考えた。
『つまり、これが俺の弱点。この蔦のような樹木が?』
彼を絡め取り逆さ吊りにしていたのは、地面から突出した三つの蔦が絡まり合い蠢いて、樹木のような形骸を成した妖魔だった。どんな妖魔が相手になるかと身構えていた彼だったが、拍子抜けのあまり力が抜けた。
『妖気を纏った樹木相手ならすぐに燃やしてカタを着けられるな』
カデンツァは指を鳴らした。指先から火花が散って、小さな炎が生まれる。彼は指先の揺らめく炎に向かって思い切り息を吹きかけた。彼の狙い通り、炎は宙に捕われている足先に向かって一直線に向かい、大きく広がって彼の足を解放した。再び自由の身になった彼は、宙返りして逆さになっていた向きを正した。すぐに地面から別の蔦がカデンツァめがけて伸びていく。その勢いは第一の試験で飛んできたダイヤ型の飛礫よりも速かった。対する彼は肩に乗せた手を広げ、その蔦を跳ね返した。
いや、跳ね返そうとしたのだ。けれど、今までの妖魔のように攻撃を押し返すことも弾くこともできなかった。蔦は彼の腕を捕らえ、彼の掌と胴体に向かって蔓を張り巡らせる。カデンツァは急いで炎を作って蔦から逃れると、距離を取ろうと後ろに飛び退いた。間一髪の危うさに一息吐いた彼は背後に視線を走らせた。嫌な予感がしたのだ。そして、常ながら嫌な予感ほど当たるものである。彼の背後には主幹が三又に分かれた内の一本だと思われる太い蔦があり、斜め右前にはまた別の主幹から分かれた蔦が、斜め左前には三つ目の蔦が。三点を取り彼を包囲していた。それぞれの蔦は互いの手をつなぐように蔓を延ばし、その空間を隙間なく塞いでいく。
カデンツァは天へと飛び出て距離を取ろうとした。しかし、最初に蔦に捕らわれた足を床としていつの間にか芽吹いた草花がそれを留める。さらに高く飛ぼうにも、それ以上の高度へと舞い上がることができなかった。彼は再び周囲に視線を遣った。蔦は既に彼の周囲を覆い尽くす勢いである。カデンツァはピンと両腕を伸ばすと全身の力を込めて、球形に膜を張って身を護った。
その瞬間、周囲を覆い尽くした蔦がカデンツァに向かって一斉に牙を剥いた。膜には第二の試験ですら感じ得なかった程の力が掛かる。半透明に透けて見える膜の向こう側は、既に妖魔の蔓によって包まれ、外側の見えない真っ暗な世界と化した。蔓が絡み合い、膜を破ろうとメキメキと音を立てる。太陽の光も届かなくなった世界でカデンツァは身を護るため、必死に膜を張っていた。
『蔓の圧縮に負けず押し返せれば再び解放されるはず。それまで保てば——』
ピシッ。何かがそう音を立てた。それが膜の限界を伝える音だったのか、蔓が立てた音なのか。カデンツァには分からなかった。しかし——。音と同時に彼を守っていた膜は一瞬にして収縮し、妖魔の蔓が一斉にカデンツァを襲った。
気を失っていたカデンツァは、首筋にドロっとした冷たい何かが伝ったのを感じて目を覚ました。自分がどのような状況にあるのか僅かな光も入らないせいで視覚的な情報は何も分からなかった。ただ彼に視えたのは、彼が身を守ろうと必死に伸ばしていた膜が再び収縮して彼の輪郭を縁取っていることだけだった。膜が描く輪郭を通して辛うじて分かったのは、彼の両腕はピンと横に伸ばされ、さながら磔のように絡み取られていることだけ。足の感覚は既になくなっていた。視覚情報が全く入らないおかげで嗅覚と触覚類の感覚は敏感だった。先程彼の首筋を伝った何かは、そのまま彼の背筋へと流れていき、意識を持ったかのように背中で広がった。まるで蜘蛛が巣を張るように細かく広がっていく。力も入らない指先からは新たに蔓が伸びてきて、ザラザラと彼の腕を這って胴体へと忍び寄ってくる。カデンツァは何とか膜を広げて、この妖魔から逃れようと全身に力を籠めた。しかし、その瞬間ピリビリとした鋭い痛みが彼の身体の表面を駆け巡り、カデンツァは痛みのあまり呻き声を上げた。駆け巡った雷のような痛みに解放された彼は荒い息を吐く。
『この感じ。妖魔の攻撃じゃないな』
危機的状況であるにも関わらず、彼は冷静だった。
『痛みが走ったのも膜を広げようとした一瞬だけだった。もしかしたら膜の方が限界を訴えたのかもしれない。膜と炎の魔法に頼り過ぎたか』
彼は深く溜息を漏らした。とは言え、今更悔いたところで状況は変わらない。どうやって脱出しようかと考えた矢先、背中で何かが固まったような感覚をカデンツァは感じた。ドロっとしたあの液体が張った蜘蛛の巣が彼の背中で凍てついたように。何かが背中に細かく張り巡らされ、根を張った。それと同時に彼は自分の内側が探られているような妙にざわつく感覚を覚えた。
次の瞬間、身体の内側が抉られるような強烈な痛みが彼を襲った。あまりの激痛にカデンツァは声すら出なかった。背中から発せられる痛みはしばらく続き、ようやく激痛から解放された彼はぜぃぜぃと荒い息を吐いた。口腔内のどこかが損傷を負ったわけではなかったが、自身の口の中では塩らしいような、錆びついたような味をした何かが込み上げて来る。カデンツァはそれを吐き出して異様な気配を感じた。彼の下方で何かが蠢めく音がする。それも、その音は彼が吐き出した何かに向かって行き——。
『こいつ、喰らっているのか?』
正確に何をしているかは分からなかったが、何かを啜るような気色の悪い音が彼を取り囲む空間に木霊する。真っ暗で何も見えない空間と気味の悪い音が不気味さをより一層引き立てた。
『こんなところで俺は死ぬのか? 魔法使いの妖精として何もなし得ることのないまま。ただの試験に負けて——?』
考える間にも背中を張り巡らせる根は力強くも彼の生気を奪っていく。再びの激痛に気絶しそうになりながらもカデンツァは虚空を睨んだ。
その瞬間、彼にはビジョンが視えた。前方を覆う蔓が引き裂かれ粉々になって散りゆき、真っ暗だった世界に白い光が束となって入り込む——そんなビジョンが。
そして、それは瞬く間に現実のものとなった。
地面から突出した三つの蔦は、血の輪中央に蔓で出来た巨大な球体を築いていた。その球体にカデンツァが取り込まれてしまってから一体どれほどの時間が経ったのか——正確には誰も分からない。少なくともティアサーにはそれが途方もなく長く感じられた。第二の試験もそうだったが、何が起きているのか把握できない状況ほど見ていて歯痒いものはなかった。どれだけ時間が過ぎても、球体には一切変化がない。カデンツァを喰らった後、妖魔の蔓は身を寄せるように蔦と一つになり、眠ったかのような静けさを纏ったまま、微動だにしなかった。中で叫んでいたはずのカデンツァの声も球体の外へ漏れ出ることはなかった。しかし、その球体から突然、大気の震えるような低い音が溢れた。次の瞬間、球体に大きな亀裂が生じた。ひび割れたその中央から蔦は切り裂かれ、見る見るうちに粉砕されていく。球体は崩壊するようにバラバラと崩れ去り、あっという間にその形骸も残るは半分となった。ようやく手足を解放されたカデンツァが宙へ飛び出る。彼は崩壊していく球体から充分距離を取ると、くるりと妖魔に向き直った。
眩しさに眩んだ目がようやく慣れてきたものの、彼の足は未だに感覚が戻っていなかった。彼の背中も違和感を残したまま、まだ妖魔が根を張っていた。それでも何故か、カデンツァはこれまでに感じたことのない程魔力に満ち足りていた。
『何だろう、この感覚。分からない。でも視える。呪文も分からないし、何の魔法なのかも分からない。でもどうすれば倒せるのかが、今は視える。戦える』
彼は片手を自分の胸に当てるとふっと瞼を閉じた。背中から身体へと根を張る妖魔の欠片を追い出すために。彼は強く思い描いた。背中に張られた根が消え去っていく様子を。
カデンツァはパッと瞼を開いた。呪文は必要としなかった。瞼を開いたその瞬間、彼が思い描いたビジョンは実現した。背中に張られた根が、胸に当てた手を通じて押し出されたのだ。妖魔が背中を切り裂いていったせいで再び激痛を強いられた彼は、痛みによる苦悶の声を上げた。カデンツァは胸に当てた反対の手を地面に着けると、妖魔を睨み据えた。既に蔦の球体は崩壊しきって霧散した状態だが、三本の蔓は地面からしっかりと伸びて絡み合っている。カデンツァは再び瞼を閉じた。今度思い描いたのは妖魔に向かって大地に裂け目が生じていく様子。大地に着けた彼の手元から妖魔へ向かって真っすぐに地面に亀裂が入り、大地の中から妖魔を追い出す様子を。カデンツァは瞼を開けると、じっと妖魔を睨み据えて大地に両手を着いた。実際に亀裂の生じた大地は妖魔へ向かって一直線に進むと、彼の視た通り妖魔を吐き出すように宙へと追い放つ。彼はサッと立ち上がると宙を舞う妖魔に掌を向け、何を唱えることもなく粉々にした。
息を呑んだような緊迫感のある静寂の中、カデンツァは掲げた掌をゆっくりと下げ、荒い呼吸を整えていた。
ピシビシピシ、バリン。
何かが割れるような音が聞こえると、溢れんばかりの歓声と拍手が彼を包み込んだ。カデンツァは安堵に頬を綻ばせた。
『ああ、終わったんだ』
そう思った途端、全身の力が抜けたカデンツァはその場に倒れた。