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⒛ アクババ

【カデンツァ・ベクレルよりティアサー・ベクレルに告ぐ!】

 イェツェルや彼の連れてきた他のトルキシアス連合隊員の存在を気にもかけずに、カデンツァは必死にティアサーの元へと全速力で飛んだ。アパレスを送ろうと泡を膨らませて声を入れても、スピードが速すぎるせいですぐに割れてしまう。彼はやむなく宙で急停止すると、大声で叫んだ。

【カデンツァ・ベクレルからティアサー・ベクレルに告ぐ! 黒い鎖が飛んでいくぞ! 絶対に触ったり近づいたりするな! 人間たちが来たんだ! 今すぐ切り上げろ! 今俺もそっちに向かってる! 以上】

()よ(パ)届け(レジア)!」

 言葉を乗せた泡はふわりと舞い上がり、そのまま宙へと消えていく。アパレスが成功したのを見届けると、カデンツァは再び全速力で飛んだ。

 窓を割って病棟を飛び出した彼は中庭を駆け抜けた。向かいにある病棟に飛び込み、そこからまた階段を旋回しながら(のぼ)って——突き当たった一番広い部屋。大きなその扉が見えた瞬間、カデンツァは呪文を叫んだ。

(ヴァ)と(ナ)散れ(イシュ)!」

 扉は木っ端微塵に打ち砕かれて、その欠片が宙へと飛散する。重力によって欠片が床に落ちるよりも前にカデンツァはその戸口を(くぐ)り抜けた。

「ティアサー!」

 部屋に飛び込むなり弟の名前を叫んだ彼は、ピタリとその場で制止した。その視線の先に元気だった弟の姿はなかった。真っ白な床にバタリと倒れたティアサーは、身体を黒い鎖で縛られてぐったりとしている。カデンツァは言葉が出なかった。頭も真っ白だった。あまりの衝撃によろけながらも弟の元へと近づいた彼は、屈んでその体を抱き起した。

「ティア……」

 ティアサーは辛うじて息があったものの、その呼吸は弱々しく、吹けば飛んで()ってしまいそうな儚いものだった。カデンツァの中でさざ波立っていた泉はシンと静まり返る。代わりに大きな雫がポトリと落ちて、泉の底へと深く沈んでいった。

「何だか騒がしいと思えば、もう一匹いたのか」

 聞こえた場違いな声にカデンツァはゆっくりと振り向いた。さっきまでの勢いは失われ、青磁色の瞳に輝きはなかった。まるでその心をどこかに置いてきたような様子で、彼は目の前にいる大きな妖魔をぼぅっと見た。禿鷹のような特徴的な頭部に大きな嘴。アクババはヴェルスヴィーナで見せてもらった幻とそっくり同じ姿をしている。

「おっと、(おれ)を恨んでくれるなよ? そいつは人間の道具だ。己たちの生きる糧である妖気を喰らい(むしば)む、残酷な道具さ。ま、小さすぎて己には効かない代物(しろもの)だがな」

 アクババの話は彼の耳を通り抜けていった。ようやく少しずつ頭が働いてきた彼は、再び弟へ視線を戻すと自らの結界を広げた。ティアサーと鎖の間に結界を滑り込ませて外そうとしたのだ。

しかし——。

 結界はスルスルと伸びていくのに、ティアサーの身体の周囲へ達すると、まるで邪魔が入ったかのように進まない。魔法で鎖を打ち砕くにしても、あんなに弱ったティアサーに、もし当たってしまったら無事ではないだろう。カデンツァは鎖を引っ張ったが、まるで磁石のように離れなかった。

「カデンツァ!」

 イェツェルの声が静かな部屋に響き渡った。顔を上げたカデンツァはそのまま人間(イェツェル)を睨んだ。

「どうしたんだ、一体」

反対側の病棟で会った時から一変したその表情を見て、イェツェルは戸惑いの声を上げる。カデンツァの青磁色の瞳はチリチリと燃え、彫りの深い目頭には暗く影が差していた。

「……どうして、来たんだ」

 ようやくカデンツァは声を絞り出した。

「どうしてって」

 イェツェルは言葉を失ったかのように口をつぐんだ。助けに来たことへの理由を求められるとは思いもしなかったのだろう。

「助けが必要だと思ったからだ。私が救われたように、あなた方の助けになりたいと——」

「そんなもの必要だなんて言ってない!」

 彼は大声で怒鳴った。イェツェルの行動は心の底から出た善意思によるものだと知りながら。言葉にしてしまってから我に返ったカデンツァは、それ以上の単語が飛び出すのを防ぐようにぎゅっと唇を()んだ。

「人間ってのは利己的なものさ」

 アクババはせせら笑うようにカデンツァに(ささや)いた。

「お前も思考が聴こえないってことは、人間じゃないんだろ? 教えてやるよ。人間ってのはな、自分の都合のいいように物事を解釈して、都合のいいように物事を進める。この星がこんだけ(けが)れたのも、元を正せばこいつらのその利己的な欲望のせいでしかない。だから己は数ある生命の中でも飛び切り有害なその種である産子を殺して喰らっているのさ。罪を犯す前に殺してやった方が他の生物のためにも良いってもんよ」

 アクババの話は人間であるイェツェルには聞こえないらしい。もしくは、カデンツァの言葉の方がよほど彼の身に堪えたのだろう。何が起きているのか分からなかった彼は、ようやくカデンツァの向こうに力なく横たわるティアサーを見つけて、その怒りの理由を知った。

「知らなかったんだ、まさかそんな……こんなことになるだなんて」

 弁解を求めるように話した彼は、片足を引き摺りながら一歩ずつ部屋の中へと入った。

「さぁ、()っちまうなら今だぜ。あの人間のせいでそいつがくたばったも同然なんだから」

 アクババはカデンツァによく聞こえる声で(そそのか)した。カデンツァは瞼を閉じて奥歯を噛んだ。イェツェルの様子からすると、彼はまだ自分の怪我すら治っていない。にも関わらず、荒廃したラレンダの施設に来て、出会ってすぐにその場を飛び出していったカデンツァを追ってきたのは、本当に彼らの身を案じてのことだと分かった。それが彼らにとって不要な助けでも、その心根は彼らの誕生に必要な善意思を一心に纏っている。その行為を否定してしまうことは、妖精の誕生を拒絶することと同じだった。

「どうして人間と関わってはいけないのか、ようやく分かったよ」

 ぼそりと呟いた声は誰に届くわけでもなく、彼の足元に転がった。カデンツァの肩は大きく膨らむと、また深く沈んでいった。瞼を閉じた彼は哀嘆に震える声を漏らした。

「アクババ、お前には更生するチャンスをティアサーが充分に与えたはずだ」

 瞼を開いた彼は、顔を上げてじっと妖魔を見た。その瞳からは怒りに燃える炎は消えている。代わりに宿っていたのは、今この手で任務を果たすという決意を秘めた鋭利な光だった。

「だからお前には俺から引導を渡してやる」

 彼はサッとイェツェルに視線を投げた。

「ティアサーのその鎖を外してくれ、今すぐに!」

「分かった」

 イェツェルの声を聞くと、彼はヒュンと飛び上がった。魔法が見られてしまうのも、自分が人間ではないとイェツェルに気づかれてしまうことも、気にしてはいなかった。

『守れと言われたルールは既に曲げた』

彼は結界を後方へと伸ばした。これ以上、ティアサーに被害が出ないように。

『俺に残されているのは、任務を遂行(すいこう)することとルジェラとの約束を守ること。それだけだ』

宙へと舞い上がったカデンツァは両手に炎を携えた。アクババは彼が人間を手に掛けると思っていたらしく、読みが外れて驚きに声を荒げた。

「なぜ人間の(がわ)につく? 生きていたってどうしようのない存在だろ?」

「かもしれないな」

 アクババの言葉に同意をしたカデンツァは、じろっと妖魔を見た。

「それでも、その人間の悪なる心から生まれただけのお前よりは、ずっと守る価値がある」

 彼はアクババの軟弱な頭部に炎を放った。しかし、炎には耐性があるのか、燃える炎の中で妖魔は不気味な笑い声を上げた。一瞬後、アクババはカデンツァが放った炎をかき集めると、巨大な炎の(たま)を作ってカデンツァに向かって投げてきた。

(アク)放たれん(オスディファーレ)」

 水魔法によって打ち消された火炎の珠は濃い蒸気を残す。蒸気の影からアクババの手が現れて、カデンツァを捉えようと彼を追いかける。彼はサッと身を避わしながらアクババを見た。大きな図体(ずうたい)は部屋の中にいるせいで狭そうに見える。動きの自由さで考えれば、圧倒的に彼の方が有利だった。しかし、アクババは次の瞬間、飛ぶ代わりにその翼を動かして突風を吹かせた。カデンツァはぐっと耐えてその場に留まっていたが、彼の広げていた結界は突風の衝撃を弾き返せなかった。

「ティア!」

 カデンツァはパッと弟の方を見た。ティアサーは彼を庇おうとしたイェツェルもろとも吹き飛ばされて、壁に激突したまま床へと落ちた。カデンツァはアクババの方へ振り向くと、キッと妖魔を睨んだ。

()もたらさん(レジア)」

カデンツァは妖魔の両翼(りょうよく)を狙って呪文を唱えた。成功した圧力魔法は、アクババの両翼を地へ()とすように床へと(いざな)う。最初は抵抗していたアクババだったが、そのうち(あらが)う力もなくなり、脚を地に着けて両翼を垂らした。

「最後に訊いておこうか」

 カデンツァは圧力魔法を緩めることなく尋ねた。

「更生して生きるつもりはあるか?」

 彼の言葉にアクババは嘲笑(あざわら)うように鼻で笑った。

「お前たちの言う〝更生〟ってのは、軟弱化して人間と仲良く生きるってことだろ? そんなことをしてまで永らえたい命はないね」

「そうか」

 カデンツァは圧力魔法を掛けたまま、反対の手で殺傷魔法を掛けようと妖魔に掌を向けて——そのまま動けなかった。

「何の情けだ? 殺すなら早くやれよ」

 まるで他人事のように話す妖魔にカデンツァは唇を噛んだ。彼の中で、どうにもやるせない気持ちが渦巻いていた。

「本当にいいのか?」

 躊躇(ちゅうちょ)するカデンツァにアクババはせせら笑った。そしてそれがこの妖魔の最期だった。


 心の中の泉にまた一つ黒い雫が落ちて淀んでいく感覚をカデンツァは覚えた。初の任務を終えたにも関わらず、気分は晴れなかった。罪悪感に近い重い気持ちを抱えたまま、彼は伸ばしていた結界を緩めて、後方へと振り向いた。

「ティア」

 駆け寄ったカデンツァは屈み込んで弟を抱き起した。ティアサーは鎖から解放されていた。しかし、彼はぐったりとしたまま。目が覚める気配はなかった。

「捕縛網は外したんだが……」

 イェツェルはそれだけ言うと押し黙った。彼は賢明にも目の前で起こった出来事を、妖魔を圧倒する魔力でアクババを倒したカデンツァのことも、どうして妖から誕生した者にしかないはずの妖気に——ティアサーに捕縛網が反応したのかも、何も訊かなかった。もし尋ねたとしても、今のカデンツァから(ろく)な返事は返って来なかっただろう。彼は抱きしめた弟の身体が冷たく、息をしていないことに言葉を失っていた。また彼は身動きを取ることも、自分自身が息をするのも忘れていた。

『呪いは彼を容易く死へと導くわ』

ルジェラの声がしんしんと降る雪のように彼の頭に冷たく降り注いだ。

『ティアサーは俺の弟だ。だから俺が絶対になんとかする』

高らかに告げた自分の声がカデンツァの脳裏に蘇った。

『——そう、言ったのに。約束したのに。なのに』

心の中の泉は再びさざ波立って細かく震えた。再び落ちた大きな雫は冷たく、凍てつくような寒さを泉全体に染み渡らせていく。

『何がいけなかったんだろう。どうすれば良かったんだろう』

冷え冷えとした泉の中、彼は寒さに震えながら声にならない言葉を呟いた。

『俺がティアサーを守るのに。そう誓ったのに』

 弟を抱きしめたまま、今目の前ではない、何処か遠くを見るような眼差しでカデンツァはティアサーを見つめていた。隣からイェツェルがいくら心配そうに話し掛けても、一切彼には届かなかった。しばらく時間が経って、ようやく今を映した青磁色の瞳は、その視界を大きく揺るがせた。どうすべきなのかも、どうすればいいのかも分からない。零れ落ちた最初の一滴を追って、雨雫のように涙が溢れていく。

歪んだその視界の中で、雪花(アラバ)石膏(スター)色だったティアサーの髪色は薄墨色へと染まっていった。

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