新月の夜。あなたに逢いに~猫獣人:リゼット編~
『新月の夜。ろくに見えもしない月が夜空で一番高い所にくる瞬間、あの山の奥にある湧き水を覗くと、死んでしまった人が映る』
与太話としか思えない、そんな噂を本気で信じる訳じゃない。
それでも。
もしかして一瞬だけでもそこに彼の姿が映るのならば、どうか叶えて欲しいのだ。
ひと目でもいい。言葉を交わせたならもっと良い。あなたに触れることができたなら、その場で死んでも構わない。
真っ暗な山道を、リゼットはひとり登っていった。
猫獣人であるリゼットには新月の夜だろうと足元は良く見えた。
風に哭く葉の音に混じる動物の声や足音だって聴こえる。
どこかで誰かが食事をしているのか、生臭いニオイが風に乗ってきてるのも、ちゃあんと分かってる。
猫の獣人ではあるものの、普段は街で料理人をしているリゼットは、大きな鍋を振るう時みたいな瞬発力には自信があったし、一日中だって立ち仕事ができるから体力にはそれなりに自信はあったのだけれど、山歩きは使う筋肉とはちょっと違っているみたいだった。しかも歩いても歩いても、目印になる筈の大杉が見つけられないのだ。
山のふもとから見上げた時は、森の中で一等高い大杉はすぐに見えたのに。
山道に入って見上げてみても、繁った葉が邪魔をしてどれが一等高いあの大杉の木なのかまったく分からなかった。
「でも、私は大杉の木の下へ行きたい訳じゃないからね」
リゼットの目的地は、そのすぐ近くにある湧水池なのだから。
真っ暗な山道を、水の気配に導かれるように歩いて歩いて。
見えることのない新月が、いま夜空のどこにいるのかも分からない。
ガサガサと鳴く葉擦れ音が、まるでリゼットを笑っているような気がした。
『馬鹿な女がまたひとり』
『死者に会う方法なんてひとつしかないだろうに』
ざわめきのように響くその言葉は、リゼットの脳内にしか存在しないものなのかもしれない。
だって、うわさを本当に信じている訳ではないのだから。
それでもリゼットの足は止まらなかった。
うわさは嘘だと確かめるまでは、眠れぬ夜が続く気がした。
ついに辿り着いたその湧き水は、月の光のない暗闇の中で、なぜか不思議な光を発していた。
ぼんやり光る、その水場へ一歩一歩近づいていく。
そうして畔に膝をついたリゼットは、震える足を擦って、心を落ち着けた。
「ついに……」
再び夜空を仰いで目を凝らしてみたけれど、リゼットの猫の瞳をもってしても星の瞬きは分かっても、月がどこにいるのかはついぞわからなかった。
けれど、悩んでいる時間はない。
山道を登り始めてかなりの時間が立っている。そもそも人に見咎められるのが嫌で、すっかり陽が落ちてから家を出たのだ。
見えもしない新月は、今にも一番高いところを通り過ぎようとしているかもしれない。
「通り過ぎてるよりいいんじゃないかしら」
ずっと覗き込んだまま朝まで迎えてしまえばいいのだ。
あの人に会えたらうわさは本当。
会えなければ、うわさに惑わされなくても済むようになって、また眠れる夜がくるかもしれない。
リゼットは覚悟を決めて湧き水を覗き込んだ。
高鳴る胸を押さえ懸命に目を凝らす。
けれど、暗闇の中で薄ぼんやりと光を放つ不思議な水面には、何も映っていなかった。
どれだけそのまま、水面を覗き込んでいただろう。
リゼットは、つめていた息を大きく吐き出した。
「だよねぇ。所詮は胡散臭いうわさだもん。死んでる人と会える訳がないんだよ。ははは、は……」
強がれたのは、そこまでだった。
リゼットの緑色をした大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜ったと思うと、それはあっさりと決壊して、泥で汚れた頬を洗い流していく。
よせばいいのに国の反対側の国境で始まった戦争に出稼ぎ感覚で参戦して行った夫は、約束していた3年後を待たず、個人認識票と端金程度の慰霊金になってリゼットの所へ帰ってきた。
いつ死んだのかどうして死んでしまったのかすら分からない。
遺体は一箇所に集められて纏めて燃やして埋められたらしい。これもうわさだけれど。
それからどれくらい泣いたのか。
夫の死に、あまりにも現実味が無かったから、受け入れるのが難しかったのだ。
でも、間違いなくこの国は今戦争していて、夫が戦争に出ていった頃はまったく影響が無かったこの街でもいろんな物が手に入りにくくなってきていた。
のどかで喧嘩だって無い日の方が多いような閑静な街は今、兵隊募集の幟がいたる所にはためき、戦争資金のための募金を求める声が響いている。どこかトゲトゲした剣呑なものになりつつある。
店に来る客達の話題でも、隣街の誰ソレが戦争に行ったけどおっ死んじまったというものが増えた気がする。
つまり、戦死したのは夫だけではなく、すでによくあることになりつつあるちいさな悲劇でしかない。
けれどよくあることになってしまったとしても、だからといって当たり前のことだとリゼットには思えなかった。
だって手元にあるのは冷たい傷だらけの認識票一枚切りだ。
温かな力強い腕も、がっしりした肩も、ぶ厚い胸板もどこにもない。
揶揄うように笑う顔も。
だから、此処にきた。単なるうわさでしかないと思っていても、万が一あるかもしれない、もしもを掴み取りたくて。
「あーあ。ひと目でも逢えたなら文句のひとつも言ってやろうと思ってたのに」
沢山泣いて、散々泣いて。
夜の闇を打ち破る朝陽の気配が近づいて、真っ暗だった世界に、ほんのりと色が戻り始めた頃。
ようやくリゼットは街へと帰ることに決めた。
まだ陽が昇った訳ではない。今から帰れば、街中に人が出てくる前に、家に辿り着けるだろう。
目を閉じて立ち上がり、湧き水へ背を向ける。
今日も仕事だ。
生きている者は、食い扶持を稼いでいかねばならぬのだ。
「仕事して、貰ったお給金でパーッと美味しい物食べて」
とはいっても、このところの品不足で何もかもが値上がりしている。
それに、どんなご馳走であってもひとりで食べていると、おいしく感じることはなくなってしまった。すべてがまるで砂を噛んでいるようだった。
このままずっと、好きな人がいない世界でひとり、食い扶持を稼ぐためだけに働いて。美味しいことも楽しいと思うこともないまま、生きていかなくっちゃ、駄目なのだろうか。
──後を追っても、いいんじゃない?
猫獣人であるリゼットはあまり執着がない。
そのつもりだったのに。
本当は、ずっとずっと心の奥底で燻ぶっていたそんな想いが、ぶわっと心を埋め尽くした。
その瞬間だった。
湧き水のある場所に、あの人の気配があった。
ゆっくり、ゆっくり。夜と朝の挟間。不安定な時の中で、心臓の音ばかりが騒めく。
間違いではありませんように。
気のせいではありませんようにと祈りながら、振り向いて、愛しい人の名前を呼ぶ。
「エド」
そこに立っているのは、たしかにエドその人だった。
ただし、その瞳に輝きはない。
虚無のような黒い洞のようなものがあるばかりだ。
……あぁ、この人は、本当に死んでしまっているのだ。
もう二度と、蕩けるように熱い視線でリゼットを見つめることはないのだ。
力なくだらりと垂れさがるばかりの腕では、リゼットと混ざりあいたいと言って力いっぱい抱き締めてくれることもないだろう。
胸がぎゅっと握り潰されるように、苦しかった。
この人と一緒に、生きていくという選択肢は未来永劫二度とないのだと思い知らされる。
それでも、彼は冥府から逢いに来てくれた。
リゼットは、それだけで良かった。
湧水池の中へ入っていき、愛しい人へ手を伸ばす。
粘ついて足を取ろうとする水を、力いっぱい掻き分け進んだ。
「エド。エド。逢いたかった。ずっと逢いたかった。お願いがあるの。わたしを一緒に連れて行っ」
あと少しで、彼に手が届くと思ったその瞬間、エドの真っ黒な洞のような瞳と大きく開いた口の中が、真っ赤に光った。
それまでエドであったモノが、びしゃりと動く汚泥と姿を変えて、リゼットの差し出していた手や足を絡めとる。
「!」
気が付けば、リゼットは、美しい湧き水を湛えた池ではなく、腐臭漂う汚泥が溜まった泥沼に腰まで浸かっていた。
汚泥に顔まで包み込まれてしまったリゼットの身体から、だらりと力が抜けた。
──このまま、えどにつつまれて、エドのそばに、いれる?
リゼットの弱さを吹き飛ばすように突如として現われた光が、それをリゼットの周りから吹き飛ばした。
「あ……あぁ……」
そうして、いとしいエドの姿が消えていることにきがついて、リゼットはあらんかぎりの力で叫んだ。
泥沼の中で、リゼットはまたひとりになった。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁぁ!!!!!!!!!」
連れて行って欲しかった。この苦しみごと、消えてしまいたかったのに!
「大丈夫か。あれはこの森に棲む魔物だ」
誰かが、リゼットに話し掛けた。
「知ってたわ。本当は、わかってた! だって湧き水の筈なのに、ここには腐臭しかしなかったから。でも、それでも良いと思ったの。愛する人のいない世界でひとり生き続けるよりマシだと思って……」
最初は微かな異臭が漂っていても湧水池なのだと思っていた。
けれど、偽物のエドが現われた途端、どうしようもない腐臭が鼻についた。
それでも、彼が来てくれたのだと、信じたかった。
いいや、ひと目でいいから逢いたかった彼の姿を写してくれた魔物の餌になれるのなら、それもいいかなと思ってしまったのだ。
「馬鹿だな、リゼット。あれに丸吞みされてしまったら最後だ。あれは苦しみや憎しみといった感情を喰う魔物だ。喰われたら未来永劫あいつの腹の中で、命が燃え尽きるその瞬間まで果てない悪夢に苦しみもがくことになるところだった」
「あぁ……」
その声の主に気が付いて、リゼットは今度こそ、足に力が入らなくなって、沼地に頽れた。
頭まで腐臭の擦る汚泥に沈もうとしていたリゼットを、けれどもその人は、躊躇なく抱き上げてくれた。
「馬鹿だな、リゼットは。こうして俺が、お前に会いに来ているというのに」
「エ、ドぉ!」
温かい。彼だった。
太い腕も首も、厚みのある肩も。癖のある短い髪に手を差し込み、皮肉気な笑みを浮かべる唇に、自分のそれを重ねた。
「はは。そんなに俺が好きか。俺の姿を写し取っただけの、生気もない魔物に喰われることを望むほど」
「えぇ、そうよ。あなたがいなければ、私は生きていけないって分かったの」
「あぁ、本当に。なんて君は馬鹿なんだ。リゼット」
「どっちが馬鹿なのよ。何が『戦争の英雄になって大金持ちにしてやる』よ。端金の慰霊金なんて要らないのよ」
「それはすまん。ちょっと失敗した」
バカバカと何度もいって胸を叩く。
叩いた手に返ってくる感触が嬉しくて、もう無くしたくないとしがみついた。
「もう、離さないで」
「そうか。ならばいいだろう」
狼獣人であるエドは、生涯連れそうと決めた相手が死んでも新しい配偶者を受け入れることはない。
ひとり静かに愛しい故人を想い、天の迎えを待つ。
だからエドはリゼットも同じだと考えていた。
「だが、お前がそう望んでくれるなら、俺はお前を連れていこう」
「えぇ、お願い。私も一緒に連れていって」
リゼットには確かにエドに抱かれているという感触があるのに。
その情熱もそのままに、重みすら感じられるというのに。
それでも、まだ日の昇らぬ新月の夜と朝の時間にある森の中で、きらきらと光り透けているエドがいまどういう存在かくらい分かっていて、再び彼の唇に自分の唇を重ねた。
それがリゼットが覚えている最後だった。
そうして森の奥深く、魔物が棲んでいた泥沼には今、古びた個人認識票が沈んでいる。
それだけが、ここで起きた愛の悲劇を知っていた。
*****
「ねぇ親仁さん。最近ここのメシの味が変わっちまったのは、やっぱり戦争で物が手に入らなくなっちまったからかい?」
「それもあるけどよ、料理人が通ってこなくなっちまったんだ。戦争に行った夫を亡くして気落ちしてたからね。この街にいるのが、辛くなっちまったんだろうな」
「そうかい。どこかで幸せになっていてくれるといいねぇ」
お付き合いありがとうございましたー
思いついた時はホラーっぽくできそうだったのに
書いてみたらあんまりホラーっぽくなりませんでしたw
※誤字報告にて、「親仁」に訂正をいただきましたが、
お店のおやじの時は、敢えてこの字を使っております。
パパは親父とか親爺でいい気がするんですけどね。
あんまり一般的ではないかもしれませんがよろしくです。
ご提案ありがとうございました!
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長月京子様より@NagatsukiKyouko
エドとリゼットのFAを戴いてしまいました!
すごい! 麗しい♡
リゼットの、めっちゃ嬉しそうな表情がとてもすき♡
長月さまの小説もロマンティックでオススメです☆
https://mypage.syosetu.com/1120862/
ありがとうございました!!