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入り口のそばにいるスパイ  作者: 西松清一郎
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 バーの内装は、どちらかというと、前もって想像していた通りであった。くるみ材らしいカウンターが、細長い空間の奥に向かって伸びている。カウンターで仕切られた厨房の壁一面に、三段の酒棚が(しつら)えられていて、そこに日本酒、ブランデー、ウォッカなど、手当たり次第に集められたような酒瓶が、すき間なく詰め込まれている。


 カウンターの向こうには中年の女が一人控えていて、うつむきながら透明なグラスを拭いていた。迷い込むように入って来た私に声をかけるよりも、磨いたばかりのグラスを片付けることを優先した。その落ち着きはらった女の所作は、その狭い空間で長年(つむ)がれた不文律(ふぶんりつ)を突きつけているようにも見えた。


「どうぞ、お好きなところへ」

 女はこの言葉に加え、およそ予想外の屈託ない笑みによって、私が当初店に対して抱いた印象を一掃した。それは名人芸とも言えるほど鮮やかであった。80年代のアイドルを思わせる一切の障壁を取り除いた笑顔。それまでの緊張からの急激な落差もあり、私は手綱(たづな)で引かれるように、最も手近なカウンター席に吸い寄せられた。


「初めて見る方ね。何にしましょう?」

 こめかみの奥の激しかった血流は、徐々に落ち着いていった。私はそこで初めて質問されているのに気づき、記憶してある数少ない酒の名を探った。

「ジン・アンド・オレンジ」


 これは『ロンググッドバイ』の一節にある酒の名で、バーに通う習慣のない私は、それ以外の酒をすぐに思い出すことができなかった。マスターらしい女は、笑顔こそ崩さなかったが、一瞬表情を曇らせた。


「ジン・アンド・オレンジってのはよくわからないけど」ここまで言い終わる頃には、女の顔から曇りは消えていた。「オレンジブロッサムはどうかしら。オレンジがお好みなら、きっとお口に合うんじゃないかしら」

「じゃあ、それで」


 ここでようやく平静が訪れ、私は店内を見回す余裕を得た。私の他に客は二人いた。店の奥に一対だけテーブル席が置かれ、そこに向かい合って収まった男たちが、くぐもった声で何やら話し合っていた。


 聴覚も平常に戻ると、BGMのさざめきが空間をうっすらと満たしていることを知った。骨董(こっとう)もののロカビリーのレコードらしかったが、その歌手名となると完全に知識の外であった。


 飲み物が出てくるまで現代の慣習そのまま、携帯電話をいじって時間をやり過ごした。例の友人に適当なメッセージを送り、その後通話をかけた。

「バーにいるのか」

 私が「そう」と答えると、友人は「俺も行きたかったな」と間抜けな声を出した。


 オレンジブロッサムが出来上がる頃、それ以上店の雰囲気を壊すまい、と会話をやめた。携帯を空いた隣の席に置くと、私の前にオレンジ色のカクテルが置かれた。


「そんなに緊張なさらないで」

 私は「どうも」と一言だけ言い、グラスに口をつけた。味は悪くなかった。はた目に格好のつく飲み物ではなかったが、それは気にならなかった。久方ぶりにアルコールを飲むことで、先ほどとは違う浮わついた頭の揺れを少しずつ経験した。


 また携帯を取るのも芸がないと思い、私は一口ずつオレンジの液体をすすりながら、黙って席上を小さく占めていた。


「店の前にいっつも男の人立ってますけど、あれ誰なんですか」

 マスターにそのような疑問を投げようとしたが、その言葉は口から出てこなかった。直接的な表現で、すんなりと(こころよ)い回答が返ってくるとも思えなかった。


「東南アジア……国境」

 質問を頭で練っていると、男たちの声が断片的に耳に入った。私は反射的に彼らへ顔を向けた。暗がりの中、こちらに向いて座っていた片方の男と目が合った。すると、穏やかになりつつあった私の心は、時間を逆にくぐり抜けたかのごとく重みを増していった。同時に、まだ表にいるはずのあのスパイの存在も、より強く思い起こされた。


「……遅くとも来月には引き渡せる……」

 のんきにここで酒をあおっている場合ではない。


 脳内で別の理性的な自分が、そのように声をかけていた。再び顔を奥へ向けなくとも、男の非難めいた視線を容易に感じ取れた。私はグラスに残ったジンを素早く飲み干すと、勘定を払うが早いか、追い払われるように店を出た。


 去り際、入り口のそばに案の定まだ立っている男を、ちらと見た。トレンチコートの男は歩き去る私の方は見ずに、開いたドアのすき間に顔をうずめるようにして店内を覗こうとしていた。

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