9.魔女の一撃は人の腰を砕くか
呼吸するだけで激痛が走る。
身じろぐだけでまるで動けない。
「俺も……年貢の納め時……ってか」
ぼやけた視界でつぶやいて、深く息を吐き出した。
薄っすら引いてきた痛みを抱えたままに、緩やかに目を閉じる――。
「なーにバカなこと言ってんのよ。たかだか腰が痛いだけじゃないの」
……と、茶番に付き合っていた女も、さすがに飽きたようだ。
男は現在、腰痛に悩まされていた。急性ではなく慢性なものに。
ちなみにぼやけた視界はただ眼鏡を外しているからであり、ただのロールプレイみたいなものである。
女はスマホ片手に、安静状態で寝転がる男の額に人差し指をぐりぐりとあてる。
軽く動かされるだけで痛むのか男は、「ぐぎぎぎ」とよく分からない悲鳴をあげていた。
「……止めたれや。腰痛を舐めんじゃねーよ……なったやつにしかわからねぇ痛みだっつの」
「はいはいわかったわかった。お、じ、い、さ、ん」
「ぐぬぬぬ……いつかわからせられる時が来ればいいのに」
動けないからやり返すこともない。そもやり返す度胸も無い。
精密機械を遥かに上回る、神の御業にて緻密に計算され構築された生命の肉体。
神秘的なまでに不完全で、未だ進化の可能性すら残しているそれは、この現代でさえブラックボックスの象徴と言える。
そんな解明困難な人間の体は、時として致命的なエラーを「痛み」や「苦しみ」に変えることもしばしばだ。
例えば足の骨が一本折れればまともに動くことなど敵わず、指一本扱えなくなるだけで無繊細な作業は途端に難しくなる。
そして、腰という部位一つ痛めるだけで日常生活の全てがままならなくなる。
「人間の致命的な欠陥だよ……マジに」
人間とはかくもまあ脆いものだと、男は腰痛を発症する度思い知らされている。
「なんせドイツじゃ魔女の一撃なんて言われてるらしいからな。魔女が物理的に腰にカチコミかけてくんじゃねーっての……」
「そうね。脳筋な魔女ね。……それにしても、ねぇ」
「なんだよぉ。首しか動かしたくねぇんだから、あんまりうろうろせんでくれよ」
「動くスペースなんてそんなにないでしょ」
「ワンルームだからな」
「それもあるけど、機械だらけでごちゃつきすぎなのよ」
部屋の片隅、男の本来の仕事場を見て女は苦言を呈した。
唯一のコンセントがある窓際に、L字型にPCデスクが配置され、いかにもゲーミング発光しそうなタワーPCが一台。
サイドボタンマシマシのマウスに打鍵音控えめらしい薄めのキーボード、どう考えても通話用にしては過ぎるコンデンサーマイクとオーディオインターフェイス、ついでに「絵心を小さい頃に置いてきた」という割にペンタブなんかがUSB接続されている。
各部から集められマジックテープでまとめきれてない焼きそば配線は、コンセントのマルチタップに電力を依存しているようだ。確実にいつか漏電事故を起こしそうだな、と女は密かに思った。
だいたい21インチくらいのモニターが三台。そのうち二つは土台を外し、アームで二枚の空中ディスプレイにされている。いわゆるマルチディスプレイってやつだろう。
一画を占拠するPC関連の機材の横には、埃を薄く被った型落ちのゲーム筐体とお古のPC、使いそうで使わなかったアフターパーツなんかが山積みされている。
もう一画は男が好む酒の瓶が、それぞれ適度に減った状態で並べられている。あとはちょっとした筆記具に開けてない封筒が数個、それに本人の趣味らしきフィギュアが三個。どれも胸が大きい美少女ものだ。なんかイラっとくる。
「椅子を机の下に押し込めばいいじゃない。布団敷いたらスペース皆無じゃない。あと、せめてデスクの下にはカーペットかマットを敷きなさいよ。敷金返ってこなくなるわよ」
「……しゃーねーじゃん。そのゲーミング椅子、もう下がんなくなっちまって。最初組み立てた時に強引にネジをねじ込んだから。マットもカーペットも俺が嫌いだから敷かない。絶対に敷かない。別に引っ越さねーし、中見せる人いねーから別にいーんだよ」
「……もこもこのカーペット、けっこう良いものだけれど」
「やだ。カーペット見てると実家を思い出すからやだ」
「……そう」
ちょっとだけ機嫌悪そうに言った男を見て、女はそれ以上追及することを止めてキッチンに立つ。
「なにか食べる? 私がお腹すいたから作るだけだけど」
「なんでも……ってのは失礼だから、じゃあそうめん。薬味はネギと海苔とワサビがあるから、テキトーに使ってくれー」
「やだ。パスタが食べたい」
「……じゃあ俺もそれで」
――そいやあ、なんでこんなことになったんだろ。
スマホを眺めながら受け答えしていた男は、ふと今の状況を思い返した。