【 プロローグ・中学1年1学期 】
教室の壁の大半を覆い隠すほどの、長い黒板。
その窓側から扉へ向かって、椅子が1つ飛ぶ。
ガ ッ !! ッゴン
鋭い衝撃音と同時に、視線を走らせる。
けが人無し、扉は無事、椅子は壊れた。
「……手が滑った」
しらじらしい自己弁護、見え透いた嘘。
静まり返った教室に俺の声だけが響く。
やっと中学になり、まだ1学期なのに。
結局、また3年、この繰り返しなのか。
そんな自分にガッカリした。
短絡的な行動と言動だったので、『あーやっちゃった』と軽く後悔がよぎった。40人ほどいる他の生徒は、事なかれ主義なんだろう。教室の前後にある入口の、前側を見て押し黙っている。
シッポを出さない優等生、逆に、担任が訝しがられていた。
一部の女生徒は懐疑的を通り越して嫌悪の視線さえ向けた。
彼一人が理不尽に曝されているのは何故なのか、と。
担任教師が、唖然とこちらを見ている。
震える瞳に浮かぶ、恐怖の色。
それは直後、怒りに変わった。
「お前、こんなことをしてッ!!」
それはコッチのセリフだよ、と。
言いかけた言葉は、飲み込んだ。
少し頭を冷やして、考えてみる。
小学校から申し送りがあったので、早々に対処したと担任は言った。この反応、キレやすいガキ程度の内容で、肝心な情報……『どんなとき』が抜けていたから、シカトすれば済むと軽く考えていたようだ。
怒りに任せて一方的に持論を展開するタイプだろう。勉強不足の教員に文部省の学習指導要領を話して聞かせても、どうせ理屈もへったくれも無い論理で感情的にがなりたてて、こちらが不利になっていくだけだ。
まして、先に手を出した、この状況下なら。
できれば使いたくなかった、奥の手だった。
手段を選ぶ余裕は無い、か……
「その椅子は元々そこにありました」
「お前が、椅子を投げつけてきたんだろッ!」
「先生。俺の椅子だったら、大問題になるよ」
自分から大問題だと言ってしまった。
日記で教壇を叩く、鋭い音が響いた。
スパーン!!
これは、頻繁にする行動。
それで生徒は全員ビビる。
教室は、静寂に包まれた。
教師の顔に喜色が浮かぶ。
が。
内心『ひっかかったな』と、ほくそ笑んだ。
「俺が教壇に座らされてない限り、そこに椅子を投げられないって言ったんだよ。懲罰だったら問題だ。日常的に? ……大問題になるだろ」
担任教師は思考が追いつかなかったらしい。
まぬけな顔で「え?」と呟いた。
アンタは初めての状況だもんな?
俺は3年この境遇、丁寧に説明してやるよ……
「どう移動したら、そうなるの? 教壇の隅に置いて生徒を座らせた椅子は無い、そうしておきたいのは先生だろ。 ……もしそうなら、大問題になるんだから」
「お前、なに言って……」
「教壇の隅に座らせたのか、すべて無かったことにするか。好きに選んだらいい。そんな事実があったのか、無かったのか。どっち?」
「そんなのは論点のすり替えだッ!」
「どこが論理的?筋が通らないだろ」
「なんだと?!」
「論点?どーでもいいよ。どっち?」
「なにがだ!!」
「あったの?無かったの?どっち?」
「話にならないッ!」
「だから、どっち?」
「話を聞けッ!」
「で、どっち?」
「もういい!今日は自習にするッ!」
担任は本当に職務を放棄して退室した。
職員室に行くのか?
ふたたび教室は静まり返ってしまった。
まいったな……椅子が壊れてしまった。
先日の席替えで一番後ろに陣取ったタカさんが、自分の椅子をブラ下げてきて、俺の前に「こっち使え」と置いたので、頷いた。
こいつとは、入学早々ひと悶着あった。
今はお互い、一目置いている。
扉の下で足の曲がった椅子を拾い上げると、ガゴンと自分に席に置き、グラグラ揺らして「こりゃ寝心地良さそうだ」とゲタゲタ笑ったが、同調する者はいない。それほど場の空気は最悪になっている。
すこしして。
クラス委員の内池良子さんが近付いてくる気配。
顔を上げると、廊下へ出るよう目配せしてきた。
階段を下りていく後ろ姿。
ピンと伸びた背中、綺麗に編んだ黒髪。
真面目そうな子だ、行き先は職員室か。
担任に謝罪しろ、と言うつもりだろう。
後を付いていくと、体育館に続く渡り廊下?
途中にある、派手なピンク色の扉を開いた。
「入って」
「ここ?」
連れ込まれたのは、女子トイレの、個室だった。
鍵をかけて、扉に身体を預けると、深い溜め息。
「知ってたのね?」
「え……なにを?」
「まさか知らずにやったの? ……なんで?!」
「ちょっと俺、なんのことだか」
知ってるとか、知らないとか。
なんの話をしてるんだろうか。
「だから……カンニングって、私が言われてて」
「あぁそれ?するわけないだろ?」
「してないと思ったくらいで椅子を投げたの?」
「してないから投げた。 変か?」
「でも。先生に、あんな一方的に文句を言って」
それは痛恨のミスだった。
「あそこに何年も座ってるんだ。なんて言い返してやろうか、毎日毎日考えてた。アッチはいきなりで面食らってたけど、コッチはスラスラ出てきて当然だろ」
内池さんは考えこんでいたが、小さな声で「助けてくれたの?」と呟いてから、こちらの返事も待たずに「視せて」と強い口調で言われたので、思わず「なにを」と尋ねた。
「目よ」
「目ぇ? ……目を見るの苦手で」
「時間かかるかも……我慢してて」
無意識に後退ったが、便器に膝の裏が当たった。
そのまま、ぺしゃりと腰かけた。
顔を両手で捕まえられ、ずいっと近付いてくる。
逃がすつもりはないらしい。
鼻の頭が当たるほどの距離。
唇を吐息が撫でていく感触。
そして。
「 な ん だ …… こ れ 」
覗いているような、覗かれているような、感覚。
接地しているはずの両足が、フワフワ浮遊する。
水面を揺蕩うような、重力が弱くなったような。
奇妙な感覚に包まれていた。
やや暫くして――
「先生の矛先を変えるために、椅子を投げた。 ……正解よね?」
「え?」
「カンニング疑惑は尾を引く。強引に止めさせた。そうなのね?」
「だから。さっきから、そう言ってたろ」
「言ってないわ、一言も」
「言ってなかったっけ?」
内池さんの目尻が下がり、「危なっかしいね?」と呟いた。
放心状態の俺を抱きかかえる、やわらかい内池さんの身体。
「助けてくれて、ありがと……立てる?」
「内池さん、意外に凄いことするんだな」
「こっちのセリフよ。似てるわね、私達」
「似てる……?」
間近で見るきめ細かい肌、首を斜めに横切り浮き上がる筋、透き通るような耳、そして。さきほどとは違う、綺麗に光を捉えるだけになった瞳の、緻密な虹彩。
耳元で「良子でいいわ」と囁く声音は、とても甘く響いた。
中学1年、1学期の終わりころ。
それ以来、良子さんから目が離せなくなったんだ ――――





