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2/2

ー2ー

「ねぇ、センセ。あたし、夜のお仕事を辞めようと思ってるの」


 左腕の傷痕をチラと確認してから、小百合は上目遣いの視線を寄越した。


「この間、ご近所のスーパーでね、面接に受かったの」


「それは良かったな。和生も喜ぶぞ」


 勿体ぶった態度は、この報告か?


「ふふ。それでね、スーパーのパートだと、3万円くらい収入が減るのよ」


 鏡台の脇に置いてあった赤いバッグを手に取ると、白封筒を俺に差し出す。


「おい――冗談だろ」


 強張った喉の奥から、やっとそれだけ絞り出した。

 開いた便箋に「契約書」という文字が踊っている。続く文面は、毎月3万円を、これまでの関係の口止め料として小百合に支払う、という内容だ。


「どうかしら」


 こちらの動揺を尻目に、彼女は至極落ち着いた様子で、更にボイスレコーダーを取り出した。スイッチを押すと、いつかの逢瀬での睦事の様子と、その後の寝物語まで、生々しい会話が流れた。これは本気だ。


「今まで使っていた1ヶ月分のホテル代と、それほど変わらない金額よ。良心的でしょ?」


 ふてぶてしい台詞を吐きながら、真っ直ぐに俺を射る。


「勿論、あたしが欲しければ、応じてあげるわよ? 奥さんも、出産後暫くは拒否するでしょうから」


 分かったような口を利くと、態とらしくニッコリと笑った。

 いつから企んでいたのだろう。そもそも、謀れて関係を持った夜、彼女は妻の妊娠を知っていた。もしかすると最初から、いずれ強請る目的で、俺を罠に嵌めたのだろうか。


「他にも、証拠はあるのか……?」


「あるわよ」


 項垂れた俺を見下すように、素っ気ない返事が突き放す。駄目だ。妻が戻って来たら、毎月3万もの使途不明金を出すなんて不可能だ。


「……分かった。だが、君とは関係を切りたい。全ての証拠を、100万で買い取らせてくれないか」


「あら――悪くない考えね」


 提案に小首を傾げたものの、すぐに勝者特有の残酷な笑みを浮かべた。


「でも、倍は欲しいわ。200万なら、証拠も契約書も全部あげる。どう?」


「分かった。持って行く。土曜の夜中だ」


「素敵。じゃ、とりあえずサインして、センセ」


 渡されたボールペンで、俺は大人しく屈辱的な署名をした。


ー*ー*ー*ー4


 約束の土曜は、月明かりを埋めるように厚い雲が垂れ込めた闇夜だった。

 住宅街に停めた車内から、小百合にメールを送る。近くに防犯カメラがなく、駐禁でもない場所――下調べは、万全だ。


『後15分くらいで着く』


『遅かったわね。待ってるわ』


 返信を確認してから、車を離れた。23時を回り、住宅街は寝静まっている。ジョギングするような軽い足取りで、アパートに向かう。湿気を含んだ生温い風が、マスクの隙間から流れ込み、全身が薄く汗ばんだ。


「やだ、センセ。何て格好なの」


 チャイムに続いて姿を現した小百合は、不審者を眺める目付きで俺をジロジロと舐め回すと、吹き出した。

 スウェットの上下に、スニーカー。フードをきっちり被り、マスクに伊達眼鏡。背負ったリュックを含めて、全身黒ずくめ――確かに怪し過ぎる。


「変装したんだ」


「心配性ねぇ」


 踵を返した後ろ姿を見送り、十分な距離を取る。スニーカーを脱ぎ、普段から出しっぱなしの彼女のサンダルを履く。靴箱脇の傘立てには、和生の野球バットが入っている筈だ。滑り止めの付いた軍手を嵌めて、予定通りバットを握ると――。


「センセ、どうし――」


 入って来ない俺を振り返った小百合は、言い終えない内に崩れ落ちた。脳天へ振り下ろした渾身の一撃は、グシュッと鈍い嫌な音を立てて頭蓋骨を砕いた。見開いたままの眼球が、白眼を剥いて飛び出している。全身が小刻みに痙攣し、口から赤い泡を吹く。額は割れ、頭頂は陥没し、不自然な裂け目から溢れた暗赤色の体液が、床のラグをみるみる染めた。

 立ち上る死の臭いに噎せ返りながら、ひびが走ったバットを放り投げる。汚れた軍手は、丸めてズボンのポケットに突っ込んだ。忘れずに新しい軍手に嵌め替える。幾分鼓動は早いが、手の震えはない。思ったより冷静な自分がいた。


 隣の寝室に踏み込むと、ベッドの上に紙袋が置いてあった。小百合は律儀にも、証拠品をまとめていたのだ。それでも、家捜しの痕跡を残すため、机の引き出しを荒らした。クローゼットの中に、彼女がいつも持ち歩いている赤いバッグがあった。中には、財布、家の鍵、手帳が入っていた。紙袋とバッグ、更に彼女のスマホを詰めて、リュックを背負う。


 居間に戻ると、小百合の白いブラウスの胸元を裂き、乱れたスカートを更に捲って下着を下げた。死者を辱しめたいのではなく、犯行動機を撹乱することが目的だ。


 靴を履き替え、ドアを開ける。激しい雨が降っていた。フードを被って走れなくもないが――傘立てを覗くと、赤い傘が1本だけ入っている。特徴もないし、ノンブランドのようだ。後で捨てれば問題ないだろう。

 俺は傘を開くと、アパートを後にした。


ー*ー*ー*ー5


 小百合の所持品と浮気の証拠品、犯行当夜に着ていた服は、細かく切断して処分した。ボイスレコーダーは音声を消去した上で破壊し、他の金属類と一緒に、何ヵ所かの溜め池に捨てた。一番苦労した彼女のスマホを片付けると、漸く終わったという実感を得た。


 遺体の第一発見者は、彼女の母親だった。約束の日になっても和生を迎えに来ないので、スマホに連絡したが返事がなかった。不安に駆られ、孫と共にアパートを訪れ――惨状を目にしたそうだ。

 解剖に回されたものの、死後3日経った遺体は、腐敗と虫害で酷い有り様だったらしい。


 和生の担任という立場に加え、労災の手続きに関わったことから、警察の任意の事情徴収を受けた。捜査は変質者の犯行と睨んでいるようだが、顔見知りの線も捨ててはいないようだ。


 慌ただしい中、予定通りに週末を妻の実家で迎えた。善き夫、優しい息子を演じた俺は、義理の両親に惜しまれながら、帰宅の途に着いた。


「真岡さん、殺されたんですって? 彼女のお子さん、パパのクラスなんでしょ?」


 高速道路を走り出して暫くすると、妻が思い出したように口を開いた。

 彼女から「真岡」の名前を聞くとは思ってもみなかった。俺は、平静を装う。


「え? ああ。そうなんだ。学校にも警察が来て、大変だったぞ」


「まだお子さん小さいのに、可哀想に」


 教え子達は7、8歳だから、確かに小さいのだが。妻の口調には、そんな額面通りの意味とは違うニュアンスがある。


茉莉香(まりか)、真岡さんと面識あるのか」


「あら、話さなかった? この子を妊娠した時、市立病院の産婦人科に行ったのね。会計の所で、真岡さんに声かけられたのよ」


 まさか――小百合と接点があったなんて。

 ハンドルを握る掌に力が入る。おい、動揺するな。茉莉香の妊娠が分かった頃といえば、小百合が左腕の怪我で通院していた時期じゃないか。まだ俺と関係してなかった筈だ。

 落ち着け、大丈夫だ。勘の良い妻のことだ――変に狼狽えて、何か気取られちゃ、まずい。


「……何、話したんだ」


 フロントガラス越しの空が、俄に暗くなる。突如として雲行きが怪しくなってきた。


「特に、何も。うちの名字、珍しいでしょ? 『もしかして、旦那様は小学校の先生ですか』って聞かれてね。『息子がお世話になってます』って挨拶されたわ」


「それだけか?」


「そうよ。どうしたの、パパ?」


「いや……世間は狭いな」


 拍子抜けした。勝手に緊張して、一人相撲もいいところだ。


「そうねぇ。あ、次のサービスエリアに寄ってくれる? お手洗い、行きたいわ」


「あ、ああ」


 あと2kmの看板を確認する。今の一瞬で、どっと疲れた。丁度良い。俺もコーヒーブレイクにするか。


 紙コップのブラックを空けた時、妻が現れた。彼女は娘を寄越すと、レモンティーを傾けた。オムツを替えて貰った娘は上機嫌だ。


「降ってきちゃったわね」


 顔を上げると、窓ガラスが滝になり、駐車場が歪んでいる。スマホで雨雲の動きを見た妻は、眉をしかめた。


「暫く止まないみたい。パパ、トランクの傘、取ってきてくれる?」


「傘なんかあったか?」


「入ってたわよ。さっき荷物積んだ時、見たもの」


 娘を返して、休憩所を駆け出す。バラバラ降る雨に濡れながらトランクを開けた。

 赤い傘が、入っていた。


「……嘘だろ」


 小百合の持ち物は、全て捨てた筈だった。確か――捨てた筈なのに。


 半ば自棄になりながら、入口で待つ妻の元に戻る。


「ごめんね、パパ。すっかりずぶ濡れだわ」


「……いや」


 俺の表情が重いのは、雨のせいじゃない。赤い傘を開いて、妻に差しかけた。


「あら。ねぇ、この傘……」


「何だよ」


 一歩踏み出しかけて、立ち止まる。彼女は驚いたように、傘の内側に貼られた天道虫のようなシールを指差した。「M……ka」。背中に書かれた英文字が薄く読めた。


「これ、私の傘だわ。病院で真岡さんに貸した筈なんだけど……いつ返して貰ったの?」


 衝撃が脳天を貫いた。溢れ出して、流れている。顎を伝わって滴るのは、果たして雨だろうか。


【了】


拙作をご高覧くださり、ありがとうございます。



さて。

今回は、妻の出産帰省中に不倫を楽しんだ男性の自業自得的なサスペンスホラーです。


親切心から深入りした、教え子の母親との不貞関係。

主人公は、最初から望んでいた訳ではありませんが、相手の女性の誘導にまんまと嵌められ、その後ズルズルと関係を重ねていきます。

女性の思惑――本当の目的を突き付けられた時、窮鼠……大胆な行動に出るのですが……。


傘というアイテムは、貸したり、借りたり、忘れたり、無くしたり……人から人の手に渡る過程でドラマを生むものだと思いました。


誰かから借りた傘が、いつの間にか玄関の一員になっている、なんてことはありませんか?

借りた側は忘れていても、貸した側は、自分の傘のこと、結構覚えているものなんです。


これからの季節、日本列島は徐々に梅雨入りします。


外は、突然の雨。

さて、あなたが手にしている、その傘――本当に、あなたの物でしょうか?



あとがきまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

また、別のお話でご縁がありましたら、よろしくお願いいたします。



2019.6.27.

砂たこ 拝



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