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 予めペンチで細かく切断したSIMカードとmicroSDカードの最後の欠片を、トイレットペーパーに包み、コンビニのトイレに流す。水渦が消えた後、覗いた便器の中に、不自然な不燃ゴミは見当たらない。流れながら紙は千々に溶け、中から溢れ落ちた金属片が点々と下水の底に沈むだろう。


 1/3ずつ、別々のコンビニで、この作業を行った。

 大袈裟ではない。

 今日日、便利な通信機器であるスマホの処分に、こんなにも苦労させられるとは予想外だった。勿論、モバイルショップやリサイクルショップに持ち込めれば、なんてことはない。そう出来ない事情があるから、ネットで散々知恵を拝借した挙げ句、この面倒な処分方法に決めたのだ。


 スマホ本体は、データを全消去した上で、指紋を丁寧に拭き取り、溜め池に捨てた。物理的破壊は、リチウム電池の扱いが厄介なので諦めた。記録的な渇水で干上がりでもしない限り、地上に戻ることはないだろう。


 ――ポッ……


 駐車場で缶コーヒーを傾けていると、フロントガラスが水滴を弾いた。大粒の雨は、蛇口を捻ったかのように、いきなりザアッと夕立になった。

 作業の完了を祝うシャンパンシャワーか、それとも彼女の無念が具現化した恨みの涙か……。


 終わったことだ。もう後には引けないし、この決断に後悔はない。なのに胸の内は、空と同じ表情に染まったままだ。


『LINE!』


 ポケットから自分のスマホを取り出す。妻のメッセージが届いている。


『パパ、土曜日何時に着く? 母さんが、みんなでお昼食べたいわねって言ってるんだけど』


 出産と産後の養生のため、妻が実家に里帰りして10ヶ月になる。今度の週末――6日後、彼女と娘を迎えに行く。幼い家族が加わった生活は楽しみには違いないが、気楽で自由な疑似独身生活の終焉を意味する。


『分かった。昼には間に合うように出るよ。手土産は何がいい? 考えておいてくれ』


 彼女の両親に、世話になった礼を持参する。多分、松田屋のどら焼か、緑香堂の抹茶羊羮だろう。


『ありがとう。また連絡するわね』


 機嫌良い文面に深く息を吐いて、スマホをしまう。

 窓外は、少し明るくなったろうか。ウォータースクリーン越しの空を眺めて、エンジンをかけた。


ー*ー*ー*ー


「奥さん、7月には帰って来るんでしょ?」


 淡いピンクのキャミソールだけを身に着けると、小百合(さゆり)はセミダブルのベッドを抜け出した。鏡台前のスツールに座り、乱れて広がった茶髪をブラシで2、3度撫でながら、鏡越しに俺を見た。

 気だるい温もりが、腰の辺りにまとわりついている。床から拾ったトランクスを履いて、彼女の背中に視線を向ける。

 項から背骨が浮き出している。肉付きの少ない身体は、小振りな胸の下にも肋を教えたし、接合の折りに触れた腰骨は、激しい動きをはっきりと掌に伝えた。


「ああ……」


 彼女とは、妻が不在の間だけの火遊びだ。家族との同居が再開すれば、夜間に家を空けることなど出来ない。最初から分かっていたことだし、この女の身体に未練はない。


「センセには、感謝してるわ」


 振り向きもせず、鏡の中で口角を上げた。息子の担任との不倫が、残り半月余りで終わる。彼女に取っても、持て余した女盛りを潤すには手頃な相手だったのだろう。将来の約束も、惚れたはれたの情念もない、身体だけの大人の関係だ。


「来週末、和生(かずき)をお祖母ちゃん家に行かせるから、逢えないかしら?」


 バスルームに向かおうと立ち上がったが、彼女の会話が引き止めた。


「そうだな。最後に、ちょっといいホテルでも取ろうか?」


 いつもビジネスホテルで逢い引きして、ルームサービスを取ってから、事に及ぶ。人目を忍ぶ関係だから、レストランやバーに行くことも、ドライブに出掛けることすら一度も無かった。

 彼女の『感謝』という言葉に触発された訳でもないが、別れのけじめに少しくらい奮発しても悪くない。


「気持ちは嬉しいけど、遠慮するわ。それより、家に来て欲しいの」


「それは――」


 リスキーだ。返事に詰まると、彼女はクスッと笑った。


「ねぇ、センセ」


 小百合は、くるりとこちらを振り向いた。眼差しが留まることを求めている。再び、ベッドの縁に腰を下ろした。


「感謝してると言ったのは、本当よ。センセのお陰で、給与補償も貰えたし」


 彼女は、左腕に薄く残った傷痕にそっと触れた。


ー*ー*ー*ー2


 真岡(もおか)和生の担任になったのは、昨年の6月のことだ。低学年、2年生の担任は通常1年生からの持ち上がりだが、担任だった石塚先生が産休に入ったため、副担任だった俺が受け持つことになったのだ。


『給食費を、また忘れた?』


『……ごめんなさい』


 放課後、職員室に呼び出すと、面長の痩せた少年は、暗い顔で俯いた。背も低く、平均的な小2男児より体重も軽い。和生は明らかに栄養不足だ。


 各家庭の事情は、ある程度知っていたし、細かな記録は石塚先生から引き継いでいる。和生は母親との2人暮らしで生活保護世帯。母親は飲食店勤務と資料にあったが――場末のスナックの所謂ホステスだ。夜、出勤する母親は、彼に十分な夕食を用意しているのだろうか?


『もう3ヶ月分溜まっているんだけどなぁ……お母さんは、昼間お家にいるのか?』


『うん』


『分かった。じゃ、お母さんに連絡してみるか』


 和生の顔が、サッと強張った。


『大丈夫だ。和生は悪くないからな』


 頭を撫でてやると、コクンと頷いた。彼を手近な椅子に座らせると、保護者連絡先の番号にかけた。


 それがきっかけだった。

 彼の母親――小百合に事情を聞くと、現在、休職中だと言う。彼女は、酔った客が振り回した割れたワインボトルで左腕を切られ、何針も縫う大怪我をしたそうだ。勤務中の事故なのに、店のオーナーは僅かな見舞金だけ出すと労災の適用を渋り、休職中の給与補償も行わないらしい。親に無心して生活を切り詰めているものの、公共料金の支払いも滞っている、とても給食費を払う余裕はない――電話口から涙声が返った。


 真岡家の窮状を学年主任に報告すると、然るべき機関に相談してはどうかとアドバイスを貰った。早速、家庭訪問して、労働基準局に相談するよう勧めた。それから暫くの間、書類の記入や、手続きに同行するハメになった。担任という業務の範囲を完全に越えていたが、小百合に頼られることは心地好くもあった。


『奥さん、妊娠されたんですってね? おめでとうございます』


『ああ……どうもありがとう』


 夏休みの終わり頃、漸く給与補償が振り込まれたと、小百合から連絡があった。


『今夜は、急にお誘いして、ご迷惑だったかしら。ごめんなさいね』


 感謝の手料理を用意したので是非に――と頼まれ、学校での雑務を片付けた帰り、アパートに立ち寄った。


『いや、ここ暫くコンビニ弁当でしたから』


 折しも妊娠が判り、産休を取った妻は、1週間前から実家に帰省していた。


『それより、和生君は?』


 てっきり3人で囲むと思われた食卓に、子どもの姿が無かった。


『長いこと我慢させていたので、お祖母ちゃん家に行かせたんです』


 2LDKの広くはないアパートに、2人切り。そのシチュエーションに、ドキリとした。


『センセ、沢山食べてくださいね』


 ちゃぶ台に並んだ冷しゃぶのサラダに、レバニラ炒め、エビチリに麻婆豆腐。大皿料理の取り皿と一緒にグラスが置かれ、ビールが注がれる。


『あ――酒は』


 車で来たことを知らない筈はない。旨そうな泡を見ないようにしつつ、断ろうとした。


『少しだけ……祝杯に付き合っていただけませんか』


 ニコリと屈託ない笑顔を向けられて、断り切れなかった。祝杯――小百合は、言葉の選び方も上手かった。


『じゃあ……一杯だけ、いただきます』


 昼間の暑さが冷めない夏の宵だ。旨い料理にビールは至福の組合せで、一杯で終わる筈がなかった。


ー*ー*ー*ー


『――センセ、もう……離してください』


 小百合の声が近くに聞こえ、ハッと目を開けると――。


『え……あ? うわっ?! 何で――』


 居間のラグに、俺は突っ伏していた。しかも、裸の小百合を下敷きにして。


『覚えて……ないんですか……』


 一糸纏わぬ彼女は、涙目で俺を見上げた。混乱する俺は、咄嗟に身を起こし、そこで初めて自分も全裸だと気が付いた。


『ええっ?! あ――』


 頭がズキンと響く。二日酔いなんて、何年振りだろう。いや、そんなことは問題じゃない!


『あたし……止めてって……』


 小百合はポロポロと泣いた。フラつく身体を何とか起こして、俺は身に覚えのない行為を、ただひたすら謝罪した。いくら酔って正体を無くしても、教え子の母親に乱暴したなんて信じられなかった。


『今夜のこと、秘密に、してください、ね……』


 傷痕の残る左腕で胸を押さえたまま、ズルズルと俺の下から這い出した彼女は、床に散らばった衣服で下腹部を隠した。


『も、勿論です!』


 居住まいを正すと、平伏低頭、土下座した。大変なことをしてしまった。停職、失業、離婚……転落のキーワードが脳内をグルグル回る。


 無言の圧力が重い。彼女の返答次第では、俺の将来は無い。血の気が引き、額に脂汗がジワリと滲む。


『……センセ、あたしのこと、女として見てくださってたんですね』


『そんな』


 否定すべきなのだが――言葉が続かない。思わず上げた視界の端で、小百合の潤んだ瞳が、俺の心を見透かしたように捕らえている。

 憎からず感じていたのは、確かだ。頼られて、迷惑に思っていなかったのも。


『センセ、あたしのこと欲しかったって、何度も……』


 恥じらうように頬を染めながら、彼女はそんなことを打ち明けてきた。俺が――本当に言ったのか? 何も、気持ちは無いのに?


『驚いたけれど、嬉しかったんです。ずっと、そんな風に扱われなかったから』


 1mも離れていない彼女は、呆然としている俺の正面におずおずと座り直した。


『ちゃんと、あたしを覚えてください。もう、あたし達は、秘密の関係なんですから』


 下半身の覆いを自ら剥ぐと身を乗り出して、俺の頬に、それから右腕に触れてきた。至近距離で、妻と違う形の乳房が誘うように揺れている。


 訳が分からなくなっていた。自分の気持ちも、小百合の心も。ただ、目の前の全裸の女は突如として艶かしく、もう一度俺の物になることを望んでいる。既に重ねた身体なら、今更躊躇うことは陳腐だ。一度も二度も――罪は同じだ。


『センセ、あたしに恥をかかせないで――』


 瞳を揺らしながら、彼女は震える声で囁くと、唇を近づけてきた。触れる瞬間、右腕を掴む指先に、キュッと力が込められ――。


『ん……!』


 乱暴に押し倒し、夢中で支配するように激しく抱いた。彼女はされるがまま身体を開き、何度も『センセ』と上ずった甘い声を漏らした。


 果てて――再び裸で重なり合って目覚めた時、彼女の罠に堕ちたことに気付いたが、久しぶりの快楽は後悔より満足を心身に刻んでいた。多分、この媚薬は中毒になる。ゾッとするような予感が背骨を貫いた。



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