九虚君
九虚君の黒のジーンズの股下は長くすっと伸びていた。
相変わらずのハーフジャケットのポケットに両手を突っ込んでいる。
うりざねに近い自然な丸顔を覆う肌は色白だけど血の色が毛細血管をちゃんと通っていた。
山下公園に注ぐ午後の陽に透き通るようなはりと潤いがある。
24歳と言われると違和感を覚えてしまうくらいの、きらきら感だ。
くっきりとした鼻や整った口元、あごのラインがとても堂々としている。
やっぱり後光を感じてしまうくらい健康的な男の子だ。
その彼の健康さが、わたしの中の何かを瞬間的に吹き飛ばした。
その健康さは、言い換えれば、お釈迦様とか大仏様とか薬師如来様とかそんな超歴史本尊的な後光といえるかもしれない。
わたしに歌を促していた、恐怖と混乱。
それは、胸にとぐろをまくのみならず濁流のように決壊して、溢れて、世界を真っ黒く浸していたのだけれど、そういうものが綺麗さっぱり、消えてしまった。
つまり、霧が晴れるみたいに、九虚君に安心したのだ。
こういう時、女子力の高い女性なら彼に駆け寄ったりするのだろうけれど、わたしはただただ混乱と呪縛からの解放に呆けるのみだった。
とても悔やまれる。
九虚君は、黒い前髪を海風に揺らしながら、じっとわたしを見た。
彼の黒髪は、相変わらずキューティクルとかつやつや感がきらきらしていた。
それから、やっぱり感じのとても悪い黒のサングラスの上の長い眉の間をしかめて、
「はあぁぁぁぁぁ」
というため息を、出した。
そして、綺麗で長い人差し指と親指の腹で、眉間を押さえながらうつむく。
ため息は、諦め感満載だった。
息を吐く唇は、ぷりぷりていた。
相変わらず、たたずまいも動作も、全てが優雅すぎる。
なので、嬉しいとともにその能天気さに何故かいらっとした。
わたしは性格がひねくれているのである。
「九虚k……」
と言いかけるわたしを、
「……フラグ、回収ですかあ。案件でご一緒、です、かあ」
と、さえぎるように嘆きながら、彼はがっくりと肩を落として遊歩道にしゃがみ込んだ。
その彼の顎を目がけて、奈崩の作業靴の先が、下から無言の弧を描く。
ひだる神の視線は、
「なんだてめえはぁっ?」
という問いをこめている。
九虚君はくるんと後転して避けて、そのまま後ろに飛び退って距離をとった。
「てめえ…!!」
空振りによろけた奈崩が低く唸った。
身体はムキムキになっても、体術は昔のままらしい。
つまり、派手なだけなのでそんなに強くない、ということに少し安心するわたしに、九虚君は訊く。
「この方は?」
「奈崩。村人なの」
答えるわたしを傍目に、奈崩は体勢を立て直した。
拳を肩の上に大きく振りかぶる。
もう、潔さすら感じさせる堂々とした隙だらけ加減だ。
九虚君はこの男に向き直って、姿勢を正し、
「……よろしくお願いいたします。九虚と言います」
と言って、深々と礼をする。
奈崩の拳の軌道は九虚君のこめかみをとらえていたのだけれど、何故か、動きはぴたりと止まった。
ひだる神は握った拳を緩めて、けっ、と言って唾を遊歩道脇の緑が少し眩しい芝生に吐く。
わたしは、何故かそのやりとりが滑稽に思えて、ひよこの被り物の内側で、唇をもにょもにょさせて、笑いをこらえた。
すると、潮騒から生臭さが抜けて、陽を上空に感じた。
海が、芝生が、木立が花壇が、海沿いの道とかその先のランドマークタワーとか、おしゃれでモダンな景色が広がる。
― そういえば、ここは横浜だった。 ―
頭部にかぶさるひよこの被り物のこめかみに両の手のひらで触れた。
そのまま上に押しのけるようにして外すと、セミロングな髪がはらりと肩にほどけ、海風に横になびく。
混乱も恐怖も嘘のように落ち着いてくれたことに、胸の奥で感謝しつつ奈崩に向き直る。
彼の眼を真っすぐに見上げる。
ひだる神の心音がわずかに揺れるのを知覚しながら、口角を上げる。
「久しぶり。奈崩。案件、よろしく」
「……おう」
奈崩は目を逸らしながらそう言った。
そんな彼の仕草にわたしは、とても遠い昔を思い出した。
それは、本当にそれは、遠い昔の彼だった。
「…行こう。境間さんがまってる、から」
わたしの声は穏やかだったと思う。
鼓膜の歌はなりをひそめて、代わりに海風が吹いていた。
「はい」
九虚君が返事をしてくれるのが心強い。
わたしは歩き出す。
彼も合わせて歩き出してくれたのが足音で分かった。
間を1つ置いて、けっ、と言ってから奈崩も。
……つい先ほどの立ち回りで、普通のヒトたちの目も引いてしまっていたので、移動が適っている。
これには奈崩も異を唱えない。
当たり前なのだけど、奈崩だけに意外である。
そしてありがたい。
境間さんの所に向かう間に、彼との関わり方をわたしがどう折り合いをつけるか、を考える事ができるからだ。
もっと言うと、今は治まっているけれど、これから何かと発生が予想される、彼とのトラブルやトラブルに起因するざわめきに、どう対処するか、である。
ざわめきは混乱を呼び、混乱は歌を誘う。
そして、歌は無用の殺戮を招く。
それだけは避けなければならない。
「……てか、よぉ。多濡奇ぃ」
「何?」
歩きながら肩越しに振り返る。
奈崩はわたしの後方で、筋肉でいかつくゴツゴツした肩をいからせて歩きながら、
「……お前らよぉ、デキてんのかぁ?」
と訊いてきた。
―うわ、さっそくきた。―
わたしの頬は硬直した。
「案件でご一緒しただけですよ」
黒サングラスの九虚君の素っ気ない言葉が、潮騒に吸い込まれていった。
トンビが上空に大きく弧を描きながら笛を鳴らすように鳴く。
それはそうである。
彼からしたら、わたしは案件の依頼人に過ぎない。
過不足の全くない論理だ。
けれど、その過不足の無さに寂しさを感じる。
― そういえば。九虚君には、急き立てられない、なあ。―
わたしには案件で必要と思われる男と寝るくせがある。
もうそれはくせというよりも強迫観念的な衝動だ。
けれど、九虚君相手にはそれが湧かない。
― これはどういうことなのだろう? ―
彼は綺麗な男の子で、清潔感もある。
クールなように見えてとても優しい。
細かいように見えて実はとてもマイペースだ。
つまり、奈崩みたいな、生理的に無理と叫びたくなるような男性ではない。
そもそも案件で組む相手と寝る、というパブロフの犬的な条件行為に、相手の容姿や性格は関係ない。
だから、これまで通りに考えると、早めに寝ておくことが好ましい。
それは案件で協力するためには円滑な人間関係を速やかに築く必要があるからだ。
しかも今回は奈崩がいる。
ということは、九虚君を味方にしておく必要があるのだ。
……けれど、急き立てられない。
― 何かが、いつもと、違う…? ―
「九虚君とはそういうんじゃないの。勘違いしないで」
進行方向に視線を戻して、つまり奈崩に背を向けて、できるだけ抑えた口調でそう言う。
そうしながら、自分が口から出した言葉に、なるほど、と思った。
つまりは、義務作業に九虚君を巻き込みたくないのだ。
そして味方として、とても信頼している。
……どうして巻き込みたくないか、また信頼しているかについて、深く考えると泥沼にはまりそうなので、止めた。
それにしても、なんというかわたしは九虚君に混乱や歌の衝動から救われたり、泥沼を恐れたり、無駄に忙しい女だ。
そして、忙しいわりに自分でも何をどうしたいのか、よく分からない。
もやもやするこの珍しい感情を、普通のヒトは何というのだろう?
やはりよく分からない。
「……分かんねえなあ。多濡奇はよぉ。相変わらずだなぁ」
なんか後ろで雰囲気ホストが言ってたけど、気にせずに北進を続けて3分。
芝生広場に着くとすぐに、境間さんを見つけた。
村の助役さんは広い緑の芝生の中央に堂々としゃがみ込み、ハト麦の大袋をダークブラウンのインバネスコートな左胸に抱えて、右手のひらを鳩たちに差し出していた。
鳩たちは大量で、クポクポ鳴いている。
境間さんおの手のひらからはハト麦が溢れている。
聖書のキリストがパンくずを群衆に分け与えるシーンを彷彿とさせられた。
笑顔も満面でとても楽しそうだ。
初めてお会いしてから18年もたつのだけれど、境間さんのこういう無邪気さというか、穏やかなふわふわ感は本当に変わらない。
ブラウンのインバネスコートのラインに、無駄の無い胴体から伸びる長い肢体。
胸元にのぞく白のYシャツに黒の蝶ネクタイに、グレーの鹿撃ち帽からこぼれる黒髪。
これでパイプでもくわえようものなら、いつでもとってもシャーロックホームズを彷彿とさせるだろう。
しかしわたしはいつも、そのいで立ちに、巨大な漆黒の凶獣を連想してしまう。
何故かはわからない。
わたしたち村人はただの遺伝病患者なのだけれど、この人は村人というより、魔、だ。
魔を人の形にしたらこうなるだろうと思ってしまう。
それほど美しく、そして恐ろしい気を帯びる人である。
その気に惹きつけられるように、彼の前の大量の鳩達以外でも、芝生広場界隈に生息する全ての鳥たち、木立の影に留まる鳩たちがカラスたちがスズメたちが、空間の全ての獣たちが、境間さん一点に視線を集中させているのが分かった。
ふと、彼を眺めているのが獣たちだけではないことに気づく。
木立に背を預けて、女の子が1人、境間さんに首を傾げながら、腕を組んで呆れていた。
真ん中で分けて肩の先まで伸ばした黒髪が、葉の隙間から射し込む陽を反射してきらきらしている。
黒めがちな瞳が大きくて、お人形さんみたいにくりくりとしている。
黒のショートスカートに白のレギンス。
レギンスの右足側には猫ちゃんがスカートのすそ下の太ももと膝上と脛にプリントされていて、とても可愛らしい。
白のブラウス。
その上にビーズが星屑みたいにきらきらした黒のカーディガンを羽織っている。
猫ちゃんがキュートなのに白と黒でまとめたコーデがとてもノーブルでおしゃれだ。
年のころは12歳くらいか。
ちょっと下がった目じりが印象的だ。
― あれ?この子。 ―
瞳に覚えがあった。
妹分にしていた子が、昔、意識不明の寝たきりにさせた女の子だ。
当時のあの子が12歳だとすると、今は30歳のはずなのに、そっくりそのまま、あの頃のままである。
しかし不思議ではない。
村には色々な体質の者がいる。
彼女は、『年をとらない人』なのだろう。
女の子は、わたしの視線に彼女は気づき、眉をかすかにしかめる。
そして、目をそらしつつ唇を小さく動かした。
その幼い声を鼓膜が知覚する。
「……最っ低。何?このメンバー」
きょとんとするわたしと、わたしの後ろの九虚君、さらに後ろでけだるく歩いてくる奈崩に、境間さんが気づいた。
立ち上がって右手を大きく振ってくれた。
「みなさんおひさしぶりですー…!」
声に反応するように周りの鳥たちが一斉に飛び立つ。
羽根と淡い影がまだらに落ちる下で、手を振り続ける境間さんの瞳に宿る穏やかな光も相変わらずだ。
わたしは口角をあげつつ遊歩道、潮騒を斜めの背に立ち止まり、両手のひらをみぞおちの前に重ねて、深々とお辞儀をする。
後ろで、奈崩が、けっ、とはき捨てるのと同時に、九虚君の足音が止まった。
多分お辞儀をしたんだと思う。
奈崩にしたみたいに。