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奈崩

 一目で巨体と分かる男が、ベンチに浅く腰をかけていた。

 肩や腕の筋肉が無駄に肥え太っている。

 ダンベルとかバーベルとかスポーツジムの広告にお呼ばれでもしたいのだろうか。

 腰の前に投げ出して組まれたブルージーンズは、大腿筋で張ち切れんばかりだ。


 有機溶剤の薬品臭がして、わたしは顔をしかめた。

 臭いの原因はすぐ分かる。

 破けている膝の横や、ミシンのラインの所々に付着している、白や黒の塗料だ。


 14年前の奈崩は体内で暴れ狂う因果(ちから)のために、とてもやせ細っていた。

 というより、骸骨のように(もろ)い体つきをしていた。

 

 なので、体型は、あの頃と全然違っている。

 けれど、相変わらずの白髪。

 新宿歌舞伎町のホストさんたちとかライオンみたいに伸びていた。

 アシンメトリックに右側の方の前髪が顔にかかるほど長くなっている。

 横髪が、潮風に後ろになびいている。


 歌舞伎役者を連想した。


 この男は奈良の、ひだる神の末裔である。

 ひだる神は、病と飢餓をもたらす神、つまり疫病神だ。

 村では、斑転(はんてん)と呼ばれている。


 奈崩の、色白の肌は、白髪と同様、相変わらずだった。

 褐色の色素が病的に抜けた肌は、斑転の特徴である。


 つりあがった目じり、白目が大部分を占める瞳は、この男個人の特徴だ。

 わたしが最も見たくない物である。


 何より無感情な心音もあの頃と変わりがなかったから、奈崩だとすぐに分かったのだ。


 けれど、違和感を覚える。


― こんな感じだったっけ? ―


 奈崩は口の端を醜くつり上げて笑い、そこでわたしは違和感の原因に気づく。

 彼は自分から話しかけてくるような村人ではないのだ。


 あの炭焼き小屋の夜くらいだったのだ。

 彼が自分から話しかけてくること、など。


「相変わらず、ひよこ、好きだなぁ。多濡奇ぃ」


 と言って、奈崩がバネが跳ねるように立ち上がる。

 その時、潮騒の香りが生臭さを増したような錯覚と不快を覚えた。


 代わりに波の音が微かに微かにひいていくような気がする。

 裏腹に道行く人々の心音の音量が増して、世界に反響していく。


 話しかけてくる奈崩、という条件だけで精神的外傷(とらうま)が蘇ってしまうこの弱さもどうかと思う。

 けれど、そもそもわたしは予想外の状況にとても弱い。


 しかもである。

 いじめっ子は(いじ)めたことを忘れるというけれど、彼はわたしの友を殺し、わたしを脅迫によって屈服させた。


 視界が認知する景色の意味が油絵のように溶けた。

 胸の奥に無理やりかぶせていたかさぶたが開いて、その恥辱と悲哀と恐怖の夜の記憶が蘇る。

 そして、全てを浸すような酩酊と共に、全身の産毛が逆立つ。

 それを知覚した時点で、知らず知らずのうちに戦闘態勢に突入している自身に気づき、戸惑う。


 奈崩が歩いてくる。

 黒のライダーズジャケットの下のダメージジーンズが一歩進むたびに、足が自然と後ずさりする。

 

 胸を、歌の衝動がこみ上げる。


― いけない。ここで歌ったら、巻き込んでしまう。たくさんの人たちを。 ―


 わたしの鼓膜には、常に旋律が渦巻いている。

 この旋律は歌うことを要求する。

 そして、わたしの歌を耳にする人は、死や狂乱、醒める事の無い眠りに(いざな)われる。

 これがわたしの因果だ。

 因果とは、村人がその血統に宿す祝福と呪いをさす。

 村人はこの因果を駆使して戦う。


「そんな硬くなんなよ。てめえがこの時間にここってことはよぉ。偶然じゃねえよなあ。俺もてめぇも案件だろ? 仲良くしよおぜぇ? 多濡奇ぃ」


 その通りである。

 だからこそ、酷い絶望を覚えた。

 異国情緒なおのぼりさん夢気分が一気に反転した事に気が付く。

 いや、反転どころではない。

 酷い混乱。


― 歌を、(おさ)え、ないと……!! ―


 奈崩がわたしの前50㎝に立った。

 近すぎる。

 海風が生臭(きつ)い。


「何固まってんだよお? 俺が声かけてやったんだぜ?仕事仲間にしかとかよ?」

 奈崩の声のトーンが低くなった。

 わたしの中の混乱が臨界を迎えかける。


 その時、

「多濡奇さん?」

 と九虚君の声がした。


 斜め後ろを振り返ると、九虚君(かれ)がいた。

 わたしや奈崩と同一の路上、遊歩道の足首に柔らかいアスファルトの上に、立ってくれていた。



 ……立っていた、ではなく、立ってくれていたと書くのが、このときのわたしの場合は正しいと思っているし、それは恐らく間違いではない。


 何故なら、彼が声をかけてくれる直前まで、鼓膜に渦巻いていたのは、呪悔の歌だったからだ。

 それは、友の淫崩(みだれ)を殺したこの男に、あの日、歌えなかった歌だった。

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