第一夜
***
「ミオ、と申します」
少女はふかぶかと地に頭をつけて、主となるひとの返答を待つ。
天高くまでそびえる岩山の上の神殿はとても大きくて、けれど人の気配なく静まりかえっていた。
朝早くミオをここへ運んできた神官たちも日が暮れる前にと山を下りてしまっていて、ここにはいない。
木造の神殿には、ミオとミオの主となる山神さまだけがいた。
「ミオ、面をあげて」
いつの間に御簾から出てきたのだろうか。
突然、頭上からかかった声に目を見開く。
はじめて聞く山神さまの声は、以外にも若い男のものだった。
***1
するすると、やわらかな衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
「ミオ」
頭を下げたまま動かないミオに焦れたのか、あごに手をかけられ上向かされる。
それに逆らわず、主をあおぎ見れば美しい、人ならざる顔がミオをまっすぐと見つめていた。
息をのみ、固まってしまったミオをいとおしげに見つめて、主となる山神さまは恭しく、膝を折った。
ミオのちいさな手をとり、くちを開く—―。
「さぁ、ミオ、僕の玉をなめておくれ」
***2
「ミオ、僕の玉をなめて?」
なに言ってるの、このひと。
玉って、あのタマですか。
お願いだからきき間違いだと言ってほしい。
涙目で、祈るように山神さまの—―——下のあたりを見つめる。
「もちろんだよ」
絶望した。
場違いなほど慈愛に満ちたお顔をしている山神さまに絶望した。
茫然と、先ほどとはべつの意味で固まる。
主をみる目が冬の川のように凍えたものになっていくのがわかる。
けっして、仕えるべき主に向けていい類の顔ではない。
けれど、いくら主であろうと、それが美男子であろうと、初対面の年頃の娘にむかって「睾丸をなめてくれ」などとのたまうような変態は、生ゴミにわくハエと同じ扱いでじゅうぶんだと思う。
わざわざ巫女に跪いてまで乞うことがソレとは。
激しい脱力感とともに、少なからず夢みていた「山神さま」という存在への尊敬の念が、お山のはるか下の方へ墜落して、さらには土竜が穴を掘るかのごとく地にめり込んでいって、そのまま帰ってこなかった。
***3
すみません。無理です。ご遠慮します。
あらゆる言いまわしでお断りをこころみる。
深々と畳に額をくっつけることも忘れてはいけない。
いくら変態といえども相手は山神さまである。尊敬は地中深くにもぐっていって冬眠したが、畏怖の念を忘れてはいけないのだ。
「えっ?」
えって、なんだろう。
山神さまを見れば、きょとんという文字をそのご尊顔にはりつけて、とても混乱しているらしい。
まさか「はい喜んで」と言うとでも思っていた—―—―わけではないと思いたい。
そうだとしたらこの神さまはどれだけお気楽な思考回路の持ち主なのだ。
べつの意味で心配になってしまう。
山神さまの残念度はどうやら天井知らずのようだ。
***4
「僕の玉、なめたくないの……?」
「遠慮しているのではなくて?」と、信じられないとでもいいたげな表情の山神さま。
いったい、山神さまの根拠のない自信はどこからやってくるのだろう。
この上から目線が神さまの神さまたる所以なのだろうか。
そうだとしたら変態を通りこして、いっそすごい。
地にめり込んでスヤスヤと冬眠していた尊敬が、地表にちょこっと出てきてしまった瞬間だった。
つ、つづくんだぜ。