第9章
9.
自分の右手の平を見つめ、何度か握っては開いてみる。先程、この手の平に魔法の輝きを作り出す事が出来たのは、けして夢ではないはずだ。
剣と魔法の世界。
剣の方はフィレンツェの理解の及ぶところではあるが、一方の魔法となると、たとえそれをあっさりと自分が実現出来たとしても理解も納得も出来てはいない。元々フィレンツェが魔法に魅力を感じたのも、自分が生きてきた物質が支配する世界に於いて、その根底を成す科学や物理法則を逸脱する力に魅了されたと言うよりは寧ろ、その力に疑問を感じたからだった。自分が魔法という想像の範疇外の力を得たならば、自分を実験台にしてその力を解析したい、そうも考えていた。もちろん、自分が冒険者として生きていくのに必要な能力と思っていたことも、けして嘘ではないのだが。
だが、現実は甘くないというか。
元いた世界では空想の産物とされていたはずのドラゴンの圧倒的な姿を目の当たりにし、そのドラゴンと死闘を演じ、そのドラゴンが美少女に変化する様を直接見てしまっては、解析や分析はおこがましいと思うようにもなっていた。
魔法は、あるものは、あるのだ、仕方ない。
自分の中では魔法という存在については、そう考える事に落ち着いた。剰え、そのドラゴンの変じた少女を好きになってしまっては目前の課題の方が多すぎて魔法の何たるかなんて如何でも良くなってきた、というのが本音であるのかもしれない。『女の子から隠し事をとったら何も残らない』とは言うが、今の俺にとってソフィアの場合は寧ろ、理解出来る事の方が少ない。魔法そのものより、より一層不可思議と言って良い。
・・・大体、何であんなに食って太らないんだ?おかしいだろう、絶対。
「おじさん、串焼きをもう一本ね!」
明るい口調で追加オーダーを出すソフィアは、既に両手にそれぞれ何本目かの串焼きを握りしめている。俺は屋台でサービスしてくれた暖かいお茶らしき飲み物に口を付けながら、目の前の少女を見つめる。先程からその小さな両の手を開ける事はなく、途中で飲み物で息をつく事もない。それ程早い訳ではないがペースを乱さず確実に串焼きを消費し続ける様は、ある意味、見る者をして感心せしむるものがある。
「お、おう、今焼いてるから、もうちょっと待っててな」
この黒焼きなる謎の串焼き屋の店主も、若干動揺を隠せないでいる。そりゃ、そうだよな。今日、ソフィアが纏うのは柔らかな曲線を描く胴当と腰当、その下には体の曲線が出るチェインメイルを全身に着込んでいる。何れも塗装などされておらず、少しくすんだ様な金属の輝きがある。あれで少しでも太ったりしたら、何処かが弾けそうな気がする。良く言えば、見た目ではドラゴンの鱗の様ではあるかもしれない。因みにその下には貫頭衣の様な物を来ていて、少なくとも首から腰のあたりまでは肌に直接金属が触れることがないらしい。
「フィルはもう食べないの?美味しいわよ、この黒焼き」
先程、この黒焼きに突進を始めたソフィアを無理に引き止めると、若い女の子がこの街を薄着で歩く不安を諭し、先にもう少し肌を覆える服をソフィアに買うつもりだと伝えたところ、今度は何やらムッとしたらしいソフィアに路地の陰に連れ込まれた。ちょっとドキドキさせられたが、『路地の入口で見張ってて』と言って物陰に入ったソフィアがフィレンツェの前に再び姿を現した時には、ほぼ全身を覆うチェインメイルを着込んでいたという訳だった。
・・・白っぽいから良いが、これが黒だったら、それはそれで問題がありそうな気もする。ソフィアのアーモンドの形をした少し吊り上った瞳には、割と鞭とか似合いそうだし。
「いや、俺はもう十分に食べたよ。ところでそろそろ、武器屋に行かないか?」
幸せそうなソフィアに、やんわりと終了の合図を送ってみる。屋台のおじさんから最後の串を受け取るソフィアは名残惜しそうにもしているが、ここは甘くしてはいけない。この謎の黒焼きが、今朝俺に魔法を教えてくれた、そのお礼だとしてもだ。如何なる時も人間、欲望に流されてはいけない。たとえ先ほど欲望に流されたという自覚のある俺だとしても、言うだけは言ってみても良いはずだ。
「そうね、後で昼ごはんが食べられなくなっちゃうと困るわよね」
いや、ソフィアさん、これが昼食のつもりだったのですが?昼ごはんは別腹なのか!?
まじで、これは定住と自炊を考えるべきかもしれない。稼ぎを全て享楽に注ぎ込む冒険者たちと、食費に注ぎ込む俺たちでは、余り差異が見いだせない。思わずソフィアから視線を逸らして、小銭を入れた巾着袋を取り出すと中に放り込まれた硬貨をまさぐる。因みに価値の高い金貨は、全てソフィアの『無限倉庫』に仕舞ってもらった。その中ならば街のスリたちも手は出せない。こちらの小袋に入っているのは、銀貨、大銅貨と、最も価値の低い普通の銅貨だけだ。
「おやっさん、いくらになる?」
一瞬の思考の停止を繕うべく会話の相手を切り替えると、やはり軽い思考停止状態に陥っていた屋台の主人の再起動に成功した。俺が店の主人に問うている間にもソフィアは最後の串を完食し、何処からか取り出した小さなハンカチらしい布で口元と両の手を拭っているところだ。たとえ口の周りを肉汁で汚していても、今は伏し目がちな睫毛も彼女の髪と同じ藍色で、大人しくしていれば間違いなく美少女なのだが。
「あ、ああ、途中から何本出したのか、分からなくなっちまったから、たくさん買ってくれたし銀貨3枚でいいや」
因みに正解は合計36本だ。屋台の主人には悪いが、正解を教えるつもりはない。俺はこれまでの長くはないこの世界での生活の中で、この世界での銀貨の価値を概ね日本円にして千円程度と踏んでいた。因みに大銅貨10枚で銀貨1枚となる。この娘は一串が大銅貨一枚の串焼きを、30本、3千円分は平らげた計算だった。一串々々がそれなりにボリュームがあり、且つ何の黒焼きなのかという不安は解消されてない事もあって、俺の方はおこぼれ的に6本を食べたところで、ギブアップしたのだが。つくづく、この世界の生活物資の相場が安くて助かる。
「さて、フィルは武器屋に行きたいのよね?この街にも何軒かあるらしいけど、一番大きなお店は大通りのもう少し街の中心に近い辺りにあるそうよ」
身繕いを済ませたソフィアが、再びするりと俺の左手に絡みついてきた。本来は篭手もあるのだろうが、今は素手のままでいてくれるのは俺としてはうれしい限りだ。腕に当たるその他の部分の感触が、冷たい金属に変わってしまったとしても。まぁ、他の冒険者たちの視線も、多少は緩和されるだろうし。後は、次の昼食までの時間を如何に引き延ばすか。出来れば黒焼き6本が消化されるまで、もう少し時間的な猶予がほしいところだ。
ドラゴンを前に一人戦いに臨むよりは、多少は楽であるに違いない。