綾子の場合
主要なシーン(死ぬシーン笑)は修正する可能性があります。とりあえず書き下ろしたものを掲載しています。
綾子の場合
陰鬱だった。こんなにも朝が重たいものとは思われなかった。貝原綾子はベッドから身を起こし、脇に置いてある目覚まし時計に目をやった。八時十五分。休日には早すぎか、と思ったが、綾子はそのまま朝食の準備をした。
死んだ泉のことが思われた。今はそれしかなかった。あんなに可愛くて素直で、弱気なところもあるけれど自分の意見をしっかり持って生きていた泉……。悲しくて仕方がなかった。
どれだけ状況を調べても、筒井泉は誰か他の者によって殺されたという証言や物的形跡は、一つも出てこなかった。しばらくして警察は彼女を自殺と認定して事件の捜査を終えた。だがそれこそ、綾子たちからしてみれば怪しかったのだ。泉が自殺する理由なんて、それこそ一つも見当たらなかったからだ。
泉のひとつ年が上の綾子と、それから泉と同級の梅元愛は、大の仲良しだった。綾子は、一度大学受験を失敗して一浪して大学に入ったので、ストレートで四大に入りストレートで卒業した泉と愛たちと、学年は同じだった。彼女たちはみな同じ大学で、それぞれ出身は文学部、法学部、そして綾子は経済学部とてんでばらばらだったが、こうしてそれなりに大手企業の同じ職場に就いていたのだった。
綾子はストレートで大学に入学していった優秀な同級生にちょっとした引け目を感じており、それは大きなものではないのだけれども、そういった同級生よりも、自分の属した学年の子たちの方ををより大切に想った。そもそも三人は就職活動でそれぞれ知り合った。当時は就職難と言われる時代で、三人は自分が受けた企業の数の多さを皮肉に競い合っては、笑うことで未来の不安を共有していた。綾子からすれば、泉は三人の中でももっとも聡明な子だった。会社の中でも目立つ存在だった。男子の社員さえ彼女の聡明さには一目を置いていたと思う。そんな泉は可愛らしい一面があって、それは実家で飼っているペットの犬への溺愛だった。彼女の溺愛はちょっとどころのものではなく、自社の机に何枚も写真立てを置いていたし、この子がいる限り私は結婚しないと言ってはよく私たちを笑わせてくれた。
綾子は冷蔵庫を開けて、中からヨーグルトをひとつ取り出した。食欲はほとんど無かった。でももうあれから一週間も過ぎたのだ。
綾子はスプーンでヨーグルトをすくって、その酸味のきいた甘みを口の中にゆっくり広がらせた。気分に反して外は晴れ、綾子の座っている所まで薄い光が射しこんでいた。
昼、愛と会う約束をしていた。
梅元愛は、可愛らしい女性だった。同じ可愛いという形容でも、たとえば筒井泉のそれは知的雰囲気を感じさせつつも、どこか幼くみんなから慕われるような妹的なものであるとしたら、愛のそれは、最近の流行りでいうところの森ガールのファッション的な、女性が可愛いと思う可愛さだった。愛は緑のパーカーに、白のフリルスカートを履いて待ち合わせ場所に現れた。綾子が気付いて、「やほ。」と力なく声をかけると、愛は
「ごめん、待った?」
という言葉とは裏腹に、にこやかな顔をみせて対面した。
「どこ行こっか。」
「んー、この前はパスタだったから、今日はもっとがっつりいっちゃう? お肉屋さんとかさ。」
綾子は苦笑した。
「ごめん、私そんなに元気ないんだ。」
「そうだよね……。当たり前だよね。ごめんね。」
「ううん、いいの。それより、私、前から行きたいと思ってたお蕎麦屋さんがあって、そこはどうかな?」「それ、いいね!お蕎麦、食べたい。」
「じゃ決まりで。」
二人は行き先を決め、目的の場所へ綾子が先導する形になった。
泉の死から一週間が経った。誰も傷がいえていなかった。会社のやり取りもどこかちぐはぐだったし、何よりそれまでそこでしゃきしゃきと働いていた泉の席が空っぽのままなのが、沈痛にすぎた。
「……泉のとこのさ、花、月曜日になったら取り換えよっかなって。今の花たち、ちょっともちが悪くて。」
「あぁ、そうなの。そういえばそうだったかも……。」
ふさぎがちになっている綾子は、なぜこの休日に愛と会っているのか、一瞬分からなくなったけど、それは大事な友人を失ったあまりの寂しさを残されたもので少しでもいいから分かち合いたいというとても単純な動機だったということをすぐ思い出した。
綾子は少し頭の中で考えた。
「日曜日にお通夜があって、月曜日に御葬式があって…。火曜日から、昨日まで、普通に会社は営業した。でもさ、何か変だよね。」
「変っていうのは?」愛が聞いた。
「泉が死んで、一定の形式のことが終わっちゃうと、普通に社会は動いちゃって、でも私はずっとそれがおかしく思えて。」
二人の間にしばらく沈黙が訪れた。そして、
「私もだよ。ずっと。」と、愛が哀しそうに言った。
「課長は何回も間違えて筒井ー書類ー!なんて言って、みんなを驚かせては一人立ちすくんでいるし、私もその度に落ち込むし、でも仕事には集中しなくてはいけない、それでずっと机にかかりっきりで十二時のベルが鳴ったりするとやったお昼だ三人でランチ、とか急に思っちゃって、隣を見るとそこは泉の空の席で……。あぁ、そうか、泉はいないんだな、とか。」
綾子はひっきりなしに語る愛の話をぼんやりと聞いていた。心の欠損。私たちはあまりに三人で居すぎたのかもしれない。
「まだ受けとめることはできそうにない……。」
綾子の心のうごきを見透かしたかのように、しかし愛は語りを続けた。綾子も哀しかった。そうしてポツリポツリと二人が話していると、目的の蕎麦屋に着いた。
「なんか、素敵なお店じゃない。」老舗といった、素朴でおもたくない外観の造りだった。綾子はお店の扉を開けた。いらっしゃーい、と、中から主人の威勢のよい声が返ってきた。
「あぁ、なんかここに来て急にお腹すいてきちゃった。」綾子はやっと笑った。それを見て愛も笑った。「私も。」
綾子は盛りそばを、愛は天ぷら定食を頼んだ。冷たい蕎麦麺ののどごしのよさに、二人とも舌鼓をうった。二人とも、少しずつ前向きな心もちになっていた。例えそれが一時的で仮そめの気休めにすぎなかったとしても、依然として変わらぬ二人の友情をお互いはばかることなく確認し合うことは、陰鬱な事件にあったばかりの者にとって決して無駄ではなかった。
綾子がほとんど完食したあとで、口を開いた。「最近、どうなの? 丸井とは。ぜんぜん聞けてなかったけどさ、その手の話。」丸井とは、彼女たちが務めるコイズミ証券会社の社員の一人で、少し前から愛と丸井は付き合っていた。いわゆる社内恋愛というやつだ。最も、綾子の見解としては、恋愛とはすべからく自由なものであり、それが同じ職務という狭い世界の中において起こるものだろうが、何ひとつとして構わないと思っていた。恋愛は人間の自由を前提とし、自由を高らかに称揚するものだからだ。
愛は、サクサクした衣に柔らかく包まれた海老の天ぷらを口にほうばりながら、それに答える。「んー。まぁ、基本的には何も変わらないって感じ。変化なし。」愛は笑った。
「ほんとー? ぶっちゃけ、私の印象をいっていいかしら。ぶっちゃけ話になるけど。あ、やっぱりやめようかな。」二人のOLたちの間には、先ほどの蕎麦屋にたどりつくまでの陰惨とした雰囲気から抜け出してきわめて明るい普段のモードに戻っていた。
「なによー。いいよ、話して話して。綾子の意見は貴重だわ。」
「いやそうねぇ、最近あなた達、どこかよそよそしい所が時折見受けられるように感じたわ。これは私の女の勘よ。うふふ。どうなの、何かうまくいってないことでもあったの?」
愛は苦笑いした。その一瞬の動揺は、とても些細なものであったが、感受性に優れた綾子は結局それを後に思い起こすことになる。
「そうねぇ、そう言われてみれば…。別に、どうってことはないんだけど、まぁいろいろね。やっぱり、社内で恋愛するのって、もしかしたら独特の難しさがあるのかも。だって、考えてもみてよ! 職場でまず顔をあわせる、だけどそれはあくまで仕事同士の関係という体面を少なくとも取り繕わなくてはならないから、まぁそれはいいんだけど、例えば休日にまた顔を合わせるでしょ、そしてまた仕事の日に同じように顔を合わせる。ぶっちゃけ、なんで四六時中近いとこに居なくちゃならないのかって、勝手な感情だとは分かってるけど、なんかねぇ。いろいろ疲れる、正直。」
愛は軽くため息をついた。綾子はそんな愛をいとしく思った。食事を終えて、人も大して混んでいなかったので、暖かいお茶を用意してもらって、二人はそれから恋愛の話し、仕事の話、最近観た映画の話などと、普段の会話を繰り広げていた。
つかのまの休息だった、綾子は愛とこうして会ってよかったと思った。でも結局、それは泉の死をいったん忘れるという一時的な方法でしかなかった、そんなことは痛いほどに分かっているのだけれども。
存分にガールズトークを広げて、蕎麦屋を後にした後、少し近くのデパートに立ち寄ってあれこれ品定めをしたあと、二人は別れた。愛は綾子の陰鬱さに同調しつつも相変わらずその無邪気な元気さを一定の仕方で保ち続けていること、そのことが綾子の敏感な感性をぼんやりとくすぶっていた。
夜の漆黒の闇に、不似合いな大きい月が漂っていた。その灯りはこの世に生きている者をひそかにもあざわらうかの如くだった。
愛と別れてから綾子はスーパーで簡単な買い物をして、ささやかな夕食を作った。白ご飯にお味噌汁、きゅうりの漬物にヒラメのムニエル。つつましやかな夕食を独りで食べる。綾子は一人でご飯を食べる時に、決まってテレビをつける癖がある。それほど大きくないテレビ画面からは、けたたましい笑い声が盛んにひびくお笑い番組が流れている。綾子は黙々と夕食を口にしながら、ぼんやりとその番組を眺めていた。どうしてこんなにつまらない番組が、少なくない資本を投入されて、相も変わらず続いていくのだろうか。一体出演者たちは私たちに何を伝えたいのだろう。世間を当たり障りなくおかしく表現して、それで大半の人たちは思考停止に陥って、ああ今日も世界は平和だったな、と一日一日を反復するのだろうか。綾子は何となく気が障って、テレビを消してしまった。部屋を独りで過ごすだけの静けさが襲う。綾子は残ったヒラメの白身を飲み込むようにして食べた。
一日が長い。何故こんなにも。時刻は十時を回っていた。お風呂を済ませた綾子は、特に何もする気力が起きず、今日ははやめに寝ようと思った。明日は昼まで寝ていられる、それならいっそ眠りの世界に没入して、塞いだ気分を閉じてしまいたかった。綾子は洗顔をしようと思って、お風呂に付いている洗面台に向かった。
……そうして洗面台の蛇口をひねった瞬間、綾子はすさまじい恐怖にとらわれた。蛇口から冷たい水が流れた――それは、あの時、泉が居酒屋のトイレでみじめな姿で死んでいたあの水だった。現場は水浸しで、そして泉は便器の中に頭を丸ごとつっぷしていた。どう見ても不自然な死に方だった。綾子は戦慄した。彼女の顔を起こした時の、あの壮絶な顔……。あそこまで悲惨な死体を、綾子はそれまで目にしたこともなかった。そしてそれは事もあろうに綾子たちの大切な親友だったのだ。蛇口から冷たい水が流れ続ける、不意に綾子はその水に触れてしまう……。あの時の感触が一気に蘇ってきた。綾子はとりみだしたように、蛇口を急いで元の位置に閉めた。
水の流れは止まった。静寂。悲痛さと残酷さが綾子の胸に残る。綾子はその場にへなへなと座りこんだ。両目から自然と涙がこぼれはじめた。私はひとつもあの事件から解放されないのだ……。いつまでも、いつまでも。
長くて締まりのいい手が、綾子のうしろからゆっくり覆いかぶさる。それは綾子の乳房に触れ、するするとお腹を通り、下腹部のふくらみに到達する……。これは夢なのか現前の世界なのか。あっ……。綾子は目を開ける。綾子と男は部屋のベッドの上にいる。
「どうした、疲れたか。」男が綾子の柔らかな尻を触りながら、声をかける。綾子は男の顔を見て、ため息をつく。
「寝てしまっていたのね……。参ったな。」
部屋の灯はつけっぱなしだった。男の名前は健二。健二は夕飯時を狙って私の部屋に来たのだった。二人で食事を終えて、そして性交をして……。
お風呂にも入っていなかった。明日からは普段通り仕事だし、散々な状況だと思う。時刻は十一時を回っていた。
綾子ははだけたまま身を起こした。「健二、いつまでいるつもり? 私、明日は仕事なんだけど。」
「知ってるよ。」
「もうちょっと早く起こしてくれても良かったじゃない。」
「まぁまぁ、ちょっと落ち着けよ。お前の眠りの深さが尋常じゃなかったからさ。それに顔も、全体的に疲れているし……。そっとしとくのがいいと思ったんだ。」
なーにがそっとしとくのがいい、だ、と綾子は内心では思ったが、口には出さずにいた。
実際、昨日愛と別れたあとから続いた憂鬱は、独りで乗り越えられるようなものではなかった。相手が健二のような者であっても、一緒に食事をし、抱かれるという事がらがあるだけでも、独りでいるよりはマシだと思えた。
「あなたは……?明日はないの、仕事。」
「無いよ。今、シフト制のアルバイトやってるからね。明日はフリー。」
そうか、そうだっけな、と綾子は思いつつも、この男のことはよく分かったものではない、と感じた。健二は、綾子の恋人ではない。いわゆるセックスフレンドというやつだ。コイズミ証券会社とは何の関係もない。よくある合コンで知り合った。綾子自身は現在健二以外に体の関係を持つ人はいなかったが、健二には他の女が何人かいることを綾子は知っている。もちろん健二もそのことを了解していた。
綾子は自分がいったい満足からは遠いことを理解していた。でもその満足をどのように何を使って得たらいいのか、二十六年間生きてきてもよく分からなかった。それでいいのだと何回も思ったりする。そうして時が経過していく。ただ、満たされていなくても更に傷つくことがあるということを、今回初めて知った。人は如何ようにも落とされいてく。綾子はその時、泉という大切な友人関係がどれほど自分にとって大切なのかを思い知るのだった。
健二と幾つかつまらない話をした。受け答えや、考えを出すのに少し頭の回転が遅い気がした。やはり自分は健二の言うとおり疲れすぎているのかもしれない、と思った。
ふと、健二の手を掴んで、綾子のそれと繋ぎ合わせてみえう。その間綾子の動作を、健二はぶっきらぼうに、でもある一定の優しさをこめて見つめていた。
厚くて、骨がしっかりした手。綾子のそれとは違う。体温が伝わる。違うようでいて、同じような、手。ふだんは目にすることのない鮮血が、この二人の体内にもめぐっていて、今も流れを止めることなく脈々と動いているということに、綾子は想像力を働かせてみた。
「そういえばさ、綾子……。」
「ん、何?」健二の右手を流れる血管のことを頭に思い浮かべながら、綾子は返事をした。
「泉さんなんだけど、けっこう前の話になっちゃうんだけどさ、脩治から電話がかかってきたことがあったんだ……。」
「うん。何。」「ん、待てよ……あ、そうか……。これは言っちゃいけないやつだったかもしれない……。」
「なによそれ。」「やっぱやめとくわ。」
綾子は笑った。
「それはひどい。なしなし。言いだしたからには、手掛かりくらい残しなさいよ。」
「手掛かりなぁ。まぁ、イーヴンな主張だな。そうだな……。いや、俺もまったく詳しいことは分からないんだ。それはだって非常に唐突で、そしてわけのわからない電話だったからな。」
「なーに? それ。」
脩治というのは、綾子も務めるコイズミ証券会社の係長補佐で、本名は丸井脩治。三十二歳という若さで出世街道に着実に結果を残す、会社の中でも誰もが認める手腕だった。
「それが、治が言うには……。ほら、泉さんのとこって、実家で犬飼ってるだろ?」
「うん。」
「その犬がどうとか……。どうか知恵を貸してほしいとか、なんか差し迫った感じで俺にいきなり電話をかけてきたんだ。意味が分からなかった。脩治はその時混乱していたんだろう。俺は落ち着くように言った。」
「だいたい、なんで脩治が泉のトコの犬のことなんか話題に出すのよ? ぜんぜん必然性が……。」
健二は綾子には答えず、そのまま話を続けた。
「まぁ、大したこともなく、脩治も自分でとりみだした、スマンとか言ってきてな、話はそれっきり。ていうのをいま思いだした。あまりにも突然のことすぎたからだよ。」
「なんで今そのことを?」健二は話したのか、と綾子は問うた。
「いや、泉さんの話をしていて、思いだした。あの人、ほんと犬マニアだったよな。」
「そうね……。」
どうやら健二の話はそれで本当におしまいらしかった。綾子は小さく喉に引っ掛かるものを覚えた。そしてそれから再び健全な眠りにつくまで、二人で泉の犬のことなどを話していた。
「筒井ー、筒……またやってしまった。私も年だな。」
月曜日の社内。相変わらずの専務の調子に、綾子は驚くことも飽きれることもしなかった。ただ、同情の念を感じて胸が少し苦しくなっただけだった。
「貝原専務、年なんかじゃありませんよ。」
綾子は苦笑いして言う。
「そーですよ、専務。あ、その仕事、私が引き受けます!」綾子に続いて、向かいに座っていた愛はデスクから立ち上がって、なにかと暗くなりがちな社内の雰囲気を少しでも明るくしようと元気に受け答えした。貝原専務は、綾子の遠い親戚にあたる人で、綾子が会社に入る前から二人はいちおう知己だった。貝原真と言って、神奈川に実家がある。叔父さんがコイズミ証券会社のことで働いていたことは知っていたが子は勤務希望地も自分の地元で出したし、まさか専務のいる同じ職場で働くとは思ってもいなかった。だからと言って、貝原真が特別に綾子をひいきして扱うということは無かった。普通は一般企業に自分の親戚が部下として入ると、それだけで部内はやれ特別扱いだコネだと騒ぎ立てるものだが、そこは専務の職場管理の手腕が光り、場はきわめて健全だった。
「君たちがいて助かるよ。もう、私もそろそろ立ち直らないといけないなぁ。」貝原真はとりわけ泉のことを部下として信頼していた。時間は午前十一時。あとひとふんばりで、気の抜けるランチタイムが待っている。
昼食はパン屋さんでとり、愛と二人で、綾子自身も少しずつ傷が癒されているのを感じること、前に進まないと泉にも申し訳ないこと、などを話した。愛はところどころ相槌をうって、話を深く聞いてくれた。綾子は、昨日ベッドのなかで話した健二との会話は話題に出さなかった。瑣末なことで話題にしにくいとも思ったし、何より綾子が少しひっかかっている所があった。
午後の職務も順調に進んでいった。
時刻は夜六時を回っていた。別に明日にまわしてもいい仕事に、綾子は夢中になっていた。とくに家に帰っても何もすることがないから、今日は残業していこうかな、と思っていた。
「綾ちゃん、わたしばんご飯コンビニで買ってくるけど、綾ちゃんも何か欲しいものある?」
綾子は愛の言葉にすぐには応じず、ちょっとして「そうねぇー……。栄養ドリンク、といいたいところだけど、特に何もいらないよ。」と答えた。
「そっか。じゃあ、行ってくるね。」愛は席をあとにした。
そうして愛が出ていってしまうと、自分のデスク付近には誰もおらず、綾子は一息ついた。隣の、泉のデスクが目に入った。今は百合の花が飾られている。少し水がにごっているから、水を替えようと思って、自分も少し休憩しようと思い立った。
泉のデスクの上には、花と、それからひとつの写真のついたてがあった。私と、愛と、そして泉の三人が仲よくピースをしている写真。あれはバンコクの旅行で撮った写真だったよね、と思いながら、綾子は水を替えた花瓶をデスクの上に置いた。そして、綾子はひとつのことに気がついた。生前、綾子はこの仕事場にも、大量の愛犬ラヴラドールの写真とついたてを持ってきていたはずなのだ。あれらはいったいどうしたというのだろう。泉が死んでしまってから、デスク整理のときに、誰かがきちんと泉の実家の元へ送ったのだろうか。
愛犬の名前は確かはなちゃんだっけ……と思いながら、綾子は泉のデスク周りを調べてみた。一番上の引き出しには何もなかったが、中段には仕事上の書類の残骸などが幾つかまばらに残っていた。ここを整理した人が、実家に送る必要はないと判断して、とりあえずそのまま置いたか。愛だろうな、と綾子はすぐ気がついた。こういう粗雑さがのこっているのは、いかにも愛らしい。いちおう過去の仕事に関するものは、用がなければ全て処分しなければならない。のこっていたものが全て仕事に関する書類だと分かってから、綾子は下段の引き出しも調べてみた。
下段にも書類や何も入っていないクリアケースがまばらに入っていた。その中で、綾子は妙なものを見つけた。「何これ……。」
泉とラブラドールが写っている写真立てだった。おそらく泉の部屋の中で、二人が寄り添うようにして笑顔で写っている……。ただしそれは、泉とラヴラドールの間を裂くかのように、真っ二つに引きちぎられていた。なぜこのようなものが……。
「綾ちゃーん、やっぱり栄養ドリンク買ってきたよ! ほら、綾ちゃんの好きな、これ。綾ちゃん……?」
愛だ。愛が帰ってきた。愛は、綾子が手にしているものを見ると、途端に顔をひきつらせた。
「愛、泉の机の中身を整理したのはあなたなの?」綾子は聞いてみた。
「う、うん……。」
「愛、やってくれたのは感謝するけど、残った書類はちゃんと捨てなきゃだめじゃない。いつまでもこんな所に置いてもいけないでしょ。」
「そうだよね、ごめん。」
「いいのよ。それより、これは何かな……?」
愛は顔をひきつらせたまま、しばらく黙りこんだ。綾子は注意深く愛の挙動を見つめていた。
「私も……私も分からないの。でも、これは、写真破けちゃってるし、実家に送らせていただくのも失礼かな、と思って、そのままにしたの。」
「そうなの……。」綾子は納得した。「それにしても……。あの泉が、こんなことを? 考えられないわ、あんなに可愛がってた自分の愛犬……。」
「そうだよね……。どうしよっか、これ……。」
「……。」二人はそのまましばらく黙りこんだ。
愛は夕ご飯を買ってきたと言ってたのに、その後逃げるようにしてすぐに社を出た。綾子は、立ち尽くしてから一端自分の仕事に戻って、九時が回るまでに退社した。
次の日の昼休み。綾子は書類を整理すると、一人で社内のトイレに向かった。一番手前の個室に入り、中から鍵をかける。
ふーっと、一息つく。気になっていたのは、やはり例の一件だった。おそらく、泉が飼っていた犬に、何事かあったのではないか。それが泉の不審な死とどう関係しているのかは差し当たり分からないが、綾子は泉の実家に電話してみようと思った。綾子自身、例のラヴラドールが元気にしているか顔も見たいところだし、お通夜の日以来、ご家族がどうしているのかも気に掛っていた。私じゃどれほども親御さんの心の穴は塞げれないけれども、泉の死という共通の痛みを抱える人どうしで何か話すことがもっと見つかるかもしれないと思った。
急に、すさまじい圧力を感じた。空気が重い。何これ……悪寒がする。綾子は、座りながら、自分の手が小刻みに震えているのを確認した。私、なんで震えているの……疑問は、不安へ、不安から焦燥へと変わっていった。違う、私は震えているんじゃない、恐怖を感じている。
綾子の身体感覚は、明らかに閉塞的になっていた。耳が聞こえにくい、手が動かない、頭の奥がキンキンする……。そのうち、トイレの上の方から、誰の声ともしれない、甲高い猫の威嚇のような声が綾子の三半規管を襲った。ギャーンギャギャギャギャ、ギューンギュギュギュギュ、ギギギギギギギギギギギギギギギギギギギギグググググググググ! すさまじい音だった。綾子は助け声をあげようと思ったが、声が出なかった。金縛りにあっている、とその時はじめて気が付いた。
頭の方からずうんとくる圧倒的な重みの感覚は、いや増すばかりだった。まったく体が動かない。その間もずっとギャンギャンギギギギギギギギギギギギギギギという声が彼女とその周りの空間を占めていた。鼓膜が破れたかもしれない。耳がいうことを聞かない。ギュワーンギャギャギャギャ、グワワワワワググググギギギギギギギガンガンガン。
そのとき、ふっと音が鳴り止んだ。身体にまとわりついていた重みが取れた。綾子がふっと脱力した瞬間、ドイレの扉がおもむろに開いて、綾子の背中からありえないほどの力が加わって、彼女は後ろから押されるようにして前方に吹っ飛んでいった。ドアが開いた先には洗面所と縦幅四十センチほどの鏡が立てかけてあって、その鏡に彼女は頭ごと突っ込んだ。
鏡は、彼女を吹き飛ばす力で、粉々に砕け散った。と同時に、綾子の顔に数えきれない鏡の破片が突き刺さった。シュパァッッ! と僅かな時間差を作って、彼女の顔から夥しい鮮血が吹き出す。彼女はそのまま一瞬宙を向き、すぐに意識を失ってもう一度洗面台にぶつかり、からだごと崩れ落ちていった。静寂。気を失ってやがて出血多量で死ぬ綾子以外には誰もいないはずのトイレで、洗面台の蛇口がひとりでに開き、水は溜まって、崩れ落ちて血まみれになった綾子の身体にすこしずつ降っていった。
Ayako, end.