泉の場合
最初の一人者、筒井泉。すべてのはじまり。
五章立てです。
Knock
光枝初朗
泉の場合 the case of Izumi,
泉はあるコンビニに入った。会社の飲み会のあとである。十時過ぎ。ほどよい酔いを頭の重さと熱で感じながら、泉は「ご使用はご自由にどうぞ」という立て札がたてかけられたトイレに向かった。
店内に入った時から思ったのだが、通常の店舗よりも随分と広い敷地だった。空間にゆとりがあるのだ。そしてそれはトイレでもそうだった。扉をあけると、横手には大きくてよく磨かれた鏡と洗面台があり、明るい照明にてらされていた。男子トイレと女子トイレはその各々にある。泉は女子トイレのドアをノックした。すると、
コン、コン。
と中から二回立て続けにノックする音がしたので、あ、中に人が居るんだな、と思って、泉はいったんトイレの外に出た。
涼しい。店内の空調は効きすぎともいえて、でもさっきまで暑苦しい空間を大人数で共有していたわれわれ社会人にとってはちょうどよいくらいだ。
「泉ィ、私たちはもう外出るわよ。」
同期のOLたちが、品定めを終えて、トイレスペースの前で佇んでいる泉一人の姿に声をかける。それぞれが片手に栄養ドリンクを持っているのが面白くて泉は笑った。二軒目でもみんなまだまだ飲む気なんだな、私は割とお酒は充分なのだけれども。
「泉、さっきは席が離れてたから、今度は私たちだけで女子会よ!」
「ほんとよねー。上司たちの気遣ってばっかで。私、一次会の雰囲気好きになれないわ。」
「私も。うちの会社は社員も多いしね。社交辞令ばっかりだったよねー。」
「じゃ、泉、うちらは外で待ってるね。」
泉はみながレジの方へ向かっていくのを眺めた。トイレからは誰も出てこない。泉はふと自分の右後ろにあるコーナーを見た。
成人誌。あられもない恰好をした若い女性や、はだけて両胸を露わにしている熟女、さらには少女とおぼしき人物の変態的な漫画の表紙。泉には縁のない世界だった。成人誌のコーナーはいつでも独異で「不健康」な匂いと雰囲気を漂わせている。ほとんどの画面を覆い尽くす肌色や、モザイクがかけられた女性器のなまなましい色はごったになって一つの唸りを形成してはあげていた。おまけにそれらは区画されて、こうしてトイレスペースに一番近い場所でおもむろに展開されているのだった。こうしてそれらをまじまじと見ていると、泉は男性が抱えるという欲望の形のえげつない奇怪さを感じるとともに、素面の自分ならこんな成人誌の表紙をゆっくり眺めることなんて絶対しないのに、という自己反省をした。
それにしても遅いな、まだかな、と泉はトイレスペースの方に向きなおった。ノックしてからも三分はとっくに経過したはずだ。泉は再び扉をあけて中のスペースに入り、以前としてそこには誰もいないことを確認した。
当然、まだ人がいるのよね。私は外で待ってたけどその間誰も出てこなかった、男の人でさえも。
泉は催促もあってノックをしてみた。三分を過ぎても黙っているほど暇な状況ではなかった。
……ノックが返ってこない。泉は不思議に思った。試しに、もういっかいノックをしてみた。コン、コン。
……。
おかしい。何か緊急ごとだろうか? 泉は声に出して「すみませーん。」と言ってみた。
返事が無い。
仕方がないので、泉はまずいかもと思いながらも、おもいきってドアノブを開けてみた。
誰もいなかった。人一人として。個室は広く、がらんどうとした空間が泉を待ちうけているだけだった。
?? たとえば私は最初に内から返ってきたノックの音を空耳でもしたのだろうか……泉はそこで深く考えることをやめて、便座に座った。まぁ、いいや。こうして便座に座ると、個室の広さに改めておどろくのだった。
そもそも、店舗は本当に広かった。とても普通のコンビニとは思えない。一次会の場所と二次会の場所の中間あたりにある、なんの変哲もない立地なのだけれども。
コン、コン。
泉は思わずびくっとした。ノックの音がしたからだ。え、もう次の人が待っているの? 泉は一度冷静になった。
「はーい。入ってます。」
はやくみんなの元へ戻らなければな、と思った。しかしちょっとすると、
コン、コン。
またノックの音がした。しかも今度はさっきより強めの音だった。人がトイレに入っている時にこうして気短な催促をされるのはとても嫌なものだ。泉はすこしだけ憤慨した。
「はーい!入ってます。」 私の声が聞こえていないはずはない、泉は大きめの声を出した。すると、
ガンガン!
いきなりドアを荒々しく叩く音がした。それはもうノックとよべるものではなかった。なに、なんなの、こっちは入っているっていってるじゃない? いい加減にしてよ!
しかし、そのドアを叩く音は止まなかった。たてつづけにドンドン! バンバン! とまるで債務遅延者の自宅前に駆けこんでどなり散らすチンピラのそれのように、ドアを叩く音は激しくなる一方だった。
気が気ではなかった。泉の怒りは静謐な怖れへと変わった。このだだっぴろい個室空間のなかで、いま泉ができることは何もなかった。叩きはつづく。ガンガン! バンバン! どんどん激しくなっていく。今や、はやく用を済ますことだけが泉のパニックに陥った頭を占めた。
泉は急いで水を流し、スカートを巻くしあげると、ぐっと緊張をこらえて「すみません!」とドアを開けた。
そこには誰もいなかった。泉が女子トイレのドアを開けた先には、誰もいなかったのだ。血の気が引いた。さっきまで、ついさっきまで、怒涛のごとく私を催促し激しい勢いでドアを叩いていた人が、一瞬で消えていたのだ。
泉は手洗い場を素通りし開けた売り場へと出た。そこに在るのは、空調の冷気、店員の間延びした声、買い物に没頭する客たち……。それだけだった。
頭が真っ白になった。誰も、誰ひとりとして該当しない……。現に私がこうやって売り場に出てきても、誰ひとりとしてここへ駆け込んでくる人はいない……。
泉はおそるおそる、トイレスペースのなかへと戻った。手洗い場にある大きな鏡の目の前に立つと、そこにはひどく疲れた自分の等身大の姿がうつっていた。何もない。ただ、泉の心臓の異常に速いな鼓動音のみが、彼女の心的世界で存在感を露わにするのだった。
「泉ー? 遅かったねぇ、あなた……泉、どうしたの? 顔が真っ青だよ?」
「泉、どうかしたの?」
外に出ると、同僚たちが泉の様子をただちに見かねて駆け寄ってきた。
「泉、どうしたの?」
泉はそこでようやく、我に返ったようだった。みんなの顔が見えた。外のじめったい湿度が彼女の冷え切った身体にまとわりついてきた。
「私…… ううん、大丈夫。ごめん、ちょっと時間かかっちゃった。」
「うん……。全然だいじょうぶだよ。ほら、あそこみて、森係長が飲み過ぎで吐いちゃって、介抱してるのよ。困ったものよね。それでまだまだ時間はかかりそうだわ。 そう、泉、何も買わなくて大丈夫?」
「う、うん、私はあまりお酒飲んでなかったから……。」
泉がそう答えると、場はいちおう安堵し、駐車場で思い切り吐瀉をして座り込んでしまっている哀れな係長の介抱へ話が戻った。泉も一同の傍にいると心が落ち着いていくのを感じた。
同僚たちが森係長のもとに行ったりするなか、泉はコンビニを振り返った。ずっと見ていると目を凝らしてしまうほどの、白色の蛍光は、夜の闇のなかでひときわ際立っていた。ここは少し飲み屋がひしめく道路から離れていた。店内では相変わらず店員がひっきりなしに来るお客のレジの対応をしている。トイレは……特に変わった様子もなかった。でも泉は考えるだけで身震いがしたので、もうとにかくさっきまでのことは忘れよう、なかったことにしよう、そう思って、一同に戻っていった。
泉たち一同は、その後、明け方まで空いている小さな居酒屋に入った。夜が続いていくのだ。そして、泉にとっては、それだけで世界が終ってしまって、彼女が再び明るき朝を迎えるということはついぞ無かった。
二十六歳、東京都に住む独身女性の死体が発見されたのは、その日の明け方四時のことだった。コイズミ証券会社の社員たちの飲み会一行は、彼女の死体発見場所には遅くても十一時には着いていたというから、それから事態発覚までの時間の長さも問題となった。東京都警察が現在詳しく取り調べている。
遺体の名前は筒井泉(二十六)。コイズミ証券会社で働く一般社員。父親、母親とともに暮らしている。長女、独身。次男が地方の大学に在学中。泉の死体は、居酒屋「ばるぼら」のトイレの中で発見された。第一発見者は、同じコイズミ証券会社に勤める貝原綾子(二十七)。筒井泉は、和式トイレの便座の中へ頭を丸ごとつっぷした状態で死んでいた。直接の死亡原因は、窒素したことによるものと考えられる。貝原綾子が見つけた時には、もう既に息を引き取っていた。
貝原綾子は、便座のなかにつっぷしていた泉を必死に引き起こした――引き起こすと、その決して軽くない物体をとっさに仰向けにした。彼女は白目を向いて、口から泡を吐いていた。綾子は泣いた。泉の髪の毛は便座の水に無茶苦茶にもまれていた。水に長い間浸かっていた顔面の皮膚は緩んで皺があちこち寄っていた……。
Izumi, end.