オッサンの頑張りどころ
知らぬ間に、随分と長い時間が経っていたらしい。
つい先日娘が生まれたばかりと思っていたのに、奴はもう家を出るという。私だって、オッサンにもなるわけだ。全く時の流れとは恐ろしい。
千葉の大学へ進むことになった娘は、鼻歌交じりで自分の荷物をまとめている。非常に楽しそうな様子だった。別れへの寂しさは微塵も感じられない。
可愛い子には旅をさせよ。分かっていても、やはり複雑な心境である。
「ちょっと、パパ。それ、早く縛ってよね。」
「え、あ・・・悪い。」
ぼんやりしていたら怒られてしまった。役に立たない父で申し訳ない。
私は、娘がもう必要ないと言ってよけた雑誌やら本やらに目をやった。手に内にあるビニール紐は、それらを縛るために書斎の奥から引っ張り出してきたものだ。
だが、なんというか。こうやって、部屋を片付けるのは良いが、その間、無言と言うのもどうなのだろう。先ほど私をせかした娘の言葉は、実は今日初めての会話である。
何か色々言った方がいいのか、それとも寡黙な父を演じるべきか。悶々としながら、ビニール紐をハサミで切る。
その時、「あ!」と娘が言った。
「コート取りに行かなきゃ。」
娘は自身の携帯を開いて時間を見た。
「5時12分かぁ。」
呟き、何か少し考えてから、娘は私の方を見た。
「ねぇ、近所のクリーニングに私の冬用コート出してあるんだけど、とってきてくれない?」
冬用コート・・・ああ、あのやたら派手な赤いやつか。娘は気に入っているようだが、私的にはあのコートの色はどうかと思う。
壁にかかってないなと思ったらクリーニングに出していたのか。
私は、徐に立ち上がった。
「金は?」
「払ってあるよ。とってくるだけ。行ってる間、ここらへん片付けておくから。」
「分かった。」
使いっぱしりにされているような気もしたが、別段断る理由もないので行ってやろうと思った。どうせ、娘が家にいる期間はあと一か月程度だ。この際、いいようにされても構わない。
私は、一旦自分の部屋に戻ってジャケットを羽織り、家を出た。
妻は、買い物に行くと言ったっきり2時間も帰ってきていないが、多分近所で、所謂ママ友たちと喋っているのだろう。妻のおしゃべりっぷりには困ったものだ。
近所のクリーニング店と言うと、自宅を出て200メートルほど先にある「むらかみ」と、そのさらに先、500メートルほど先の「クリーニング白川」とがある。
いつも我が家が利用しているのはクリーニング白川の方だ。距離的には少し遠いのだが、経営しているのが妻の知り合いなので、そっちの常連なのだ。
寒さに震えながら、私は夕暮れの道を歩いている。季節はまだ2月の初めだ。冷たい風が本当に身に染みる。むらかみを通り過ぎたあたりから、足の感覚が遠くなってきた。短い距離だから歩こうと思ったのだが、こんなことなら車を出してしまえばよかったと今更後悔する。
死ぬほど寒い思いをして、ようやくクリーニング店についた。店内は暖房がしっかりと入っており、涙が出そうなほどに暖かかった。しばらくその暖かさに浸っていると、例の妻の知り合いが出てきた。ちなみに、この店名はクリーニング白川なのに、彼女の苗字は皮肉にも黒田である。
「え、セイジロウさんじゃない!」
黒田さんは飛び上るほど驚いて声をひっくり返した。
いくら私が普段来ないからって何もそこまで驚くことないだろうに。
「ご無沙汰しております。娘のコートを取りに来ました。」
「あーはいはいはいはい!」
はい、は一回でいい。
「もちろん出来てますよ!にしても、あなたが来るなんて珍しい。」
「娘に頼まれたものですから。」
黒田さんは笑いながら、奥のハンガーにひっかけてあった娘のコートを外して、紙袋に入れた。
やはり、コートは、あの不思議な赤い色をしている。
「どうぞ!」
「ありがとうございます。」
どうも黒田さんは声が大きくて苦手だ。というか、妻もそうだが、彼女の知り合いは大体声が大きくてよく喋る。似た者同士と言うのは引き寄せられるのだろうか。
「外寒かったでしょう!粉雪舞ってませんでした?」
「粉雪というか・・・吹っかけが少し。」
この辺りは山に囲まれているので、山頂の雪が下へと落ちてくる。私は、吹っかけと言ったが、風花ともいう現象だ。名前自体は綺麗な響きだが、要は風で吹っ飛んできた雪である。
「雪には違いないですね!ホワイトクリスマスならぬホワイトバースデーじゃないですか!」
黒田さんが目を輝かせて言った。
「バースデーって誰の。」
「えー!とぼけないでくださいよぉ!ユキちゃん今日で18歳でしょう!」
「うぇ!?」
そういえば!!
思わず変な声が出てしまった。よく考えてみれば、今日は娘の誕生日だ。忘れっぽくなったのは自覚していたがここまでとは。
「その様子じゃ忘れてたみたいですね。」
今回ばかりは黒田さんに感謝だ。
私は、慌てて紙袋を受け取ると、すぐに店を飛び出した。
背後で、笑いながら「ありがとうございました~」という黒田さんの声が聞こえた。
妻がなかなか帰ってこないのは、多分ケーキか何かを取りに行ってるからだろう。本当に迂闊だった。娘の誕生日を忘れているなんて。
こんなダメ親父でも、一応毎年娘にプレゼントを渡している。いつもなら、流行りのものだとか、娘の好きそうなものを、さり気なく調べてから買っているのだが、もうそんな時間はない。
あー、本当に車でくればよかった。そうすれば、そのまま少し遠くのデパートにも行けたのに。
・・・娘が喜びそうなもの。
ぱっと出てきたのは、腕時計だった。だが、今は携帯が普及していて、さほど必要がないようにも感じる。ならば、アクセサリー?・・・いや、娘の趣味はよく分からない以上、下手に選ぶのは。
とりあえず、近くの百貨店に足を進める。店に行けば、何か思いつくかもしれない。
と、その時だった。
「まって!!」
突如、背後から、娘と同い年くらいの女の子の声が聞こえた。その瞬間、自分の体に何かがぶつかった。あまりに強い衝撃だったので、思わずよろける。視界の隅に白いもの見えた。
赤い首輪を付けた犬だ。
おそらく雑種。だが、そのリードは、誰の手にも握られていない。犬は、私の持っていた紙袋を咥えた。
「おい、こら!」
咄嗟に抵抗するが、虚しくふり払われる。犬は、紙袋を引きずりながら、すぐさま走って行ってしまう。
「キャー!ごめんなさい!すぐお返しします!!」
どうやら、散歩中に逃げられてしまった様子。追いかけてきた女の子は、犬の飼い主らしかった。
女の子に続いて、私もすぐに体勢を立て直し、犬を追いかけた。自慢じゃないが、高校までは陸上部の短距離エースだった。今でこそ更年期障害に怯えているが、まだまだ体力には自信がある。
おっさんだと思って私を舐めるなよワン公!!
前を走っていた女の子をすぐに追い抜く。女の子は、一瞬凄い顔をして私の方を見てから(このオッサン早えー!とかっだら嬉しい)、すぐに彼女もスピードをあげた。
良い年した男と少女がこぞってで犬を追いかける様は異様であったが、荷物を奪われている以上気にしている余裕はない。
もうすぐ追い付きそう、と言うところで、目の前の信号が赤に変わった。自動車に阻まれ足を止めざるを得ない。
私たちを馬鹿にするように、犬は自動車の間をすり抜け、そのまま前に走ってしまった。
「くそ!」
さすがに息が切れる。少し遅れて、女の子が私の横に立った。
女の子は、この世の終わりというくらい、とても青ざめた顔をしていた。
「ほっ、本当にごめんなさい・・・!」
女の子は、なんとなく娘に似ていた。本気で謝っているようだったし、こればかりは彼女だけが悪い訳でもないので、叱るのは止めた。
「構わんよ。」
そういって、私は、自分のジャケットを脱いだ。
「ちょっと預かっててもらえるかい?走るのに邪魔だから。多分、あのスピードなら追い付ける。」
女の子は、こくんと頷いて、私からジャケットを受け取る。
「足、凄く早いんですね。私も駅伝やってるんですけど、びっくりしました。」
そういってもらえると、ちょっと嬉しい。だが、ここでにやけては、ただの気持ち悪い人になってしまうので、驕るのは我慢する。
間もなく、信号が青に変わった。犬は大分遠くに行ってしまっているが、見えるところにいた。
私は、思いっきり足を踏み込んだ。
「ウラルァアッ!!」
これ以上ないくらい、本気で走った。現役のタイムはさすがに抜けないかもしれないが、気持ちだけはその頃と同じくらいだった。
走りながら、腕をまくった。むき出しの肌に触れる風は、冷たいが心地いい。
見込んでいた通り、私と犬の距離が段々と縮まっていく。
道行く人が、犬に怯えて道の横にそれる。捕まえてくれよと思う反面、追いかけやすくていい。
充分に距離が縮まったところで、犬にとびかかる。
犬は、短くギャンッと一声鳴くと、すぐに大人しくなった。
「あぁー。」
数百メートルの追いかけっこだが、完全に汗だくである。何をやってるんだ、私は。だが、捕まえられて良かった。引っ手繰られたブツは、紙袋こそ擦れて少し破れていたが、中身は無事である。
「これで・・・ユキに怒られないで済むな。」
息も絶え絶えに呟いて、ふと上を見上げた。目に入ったのは、看板に書かれた「新装開店、本日より」の文字。
知らないうちに、アンティークの店が入っていたようだった。
「良かった!」
息を整えていると三分ほどして女の子がやってきた。
「ありがとうございます!お荷物、大丈夫でしたか?」
正直、疲れてしまって笑うどころじゃなかったのだが、女の子の安心した表情に負けて、苦笑いしてみせる。
「あぁ。ただ、今度からリードを持つ時は気を付けるんだぞ。」
「はい、本当にすみませんでした!」
女の子は深く深く頭を下げた。そして、ジャケットを差し出した。
「あの、これ。」
「どうも。」
まだ着る気にはならなかったので、小脇に抱える。犬を受け渡すと、女の子はもう一度頭を下げた。しかし、私は、女の子よりも、今目の前にある食器屋が気になって仕方がなかった。
「もういいよ。遅いし、家に戻りなさい。」
女の子は、犬のリードを持ち、今度こそしっかりと握って、その場を去って行った。
「さて。」
気を取り直して、私は目の前の店を見た。
ショーウィンドウにある、若い子たちが好きそうな雑貨の数々。これはラッキーだったと思った。
一際、目を引く、青いガラスのスタントライト、赤いガラスのスタントライト。
どちらの色にしようか迷って、青い方を選んだ。
「あいつは赤より青が似合う。」
ボロボロの紙袋の中の、ほんの少し褪せた赤いコートに、そう語りかけた。
最後まで、手のかかる娘だよ、お前は。