8:幸
「お兄ちゃん?」
その一言で、俺は我に返った。
目の前にいるのは妹の陽香。
周りを見ると、夕日の朱に染まった学校の教室。
あぁ、そうか。
もう放課後か。
「ねぇ、お兄ちゃんってば!」
「あ、あぁ。すまん、ボーッとしてた」
「もう! 迎えに来てくれるって言ってたのに、全然来ないから……」
そう言って、陽香は拗ねたような表情を見せる。
学校では人気者な陽香が俺にだけ見せてくれる素の表情だ。
その表情を見て、俺は微笑ましい気持ちになる。
「拗ねるな拗ねるな。帰り何か奢ってやるから」
「本当? じゃあ、行こっか! お兄ちゃん!」
俺の手を引いて、走り出す陽香。
……まったく。
現金なものだな。
けど……
「幸せだ」
家に帰る前に、陽香にシュークリームを買ってやり、そのまま買い物へ。
今日の夕飯の買い物をし終え、その帰り道のことだ。
「ん? どうした、陽香」
他愛もない話をしていると、突然陽香が立ち止まった。
何事かと、俺は陽香の顔を覗き込んだ。
その瞬間だった。
――――チュッ
「っ!?」
唇を柔らかい何かに塞がれる。
それが陽香の唇であることを理解するのには、数秒かかった。
「ん、んっ……」
「っ、ん!?」
我に返り、陽香を離れさせようとするも、陽香に頭を押さえられていて、簡単には離れられない。
そのままキスをする。
そして、数秒後。
「ん、はっ……」
「ぷはっ!?」
陽香が俺の頭を解放し、自ら離れた。
俺は混乱する頭を必死に整理し、慎重に質問する。
「陽香……な、なんで……」
言葉足らずな質問だ。
でも、陽香はそれを理解してくれて、答えを返してきた。
「お兄ちゃんが、好きだから……だよ」
顔を赤らめ少し俯き、そう答えを返してきた。
とても恥ずかしそうに。
けれど、その口調ははっきりしていて……。
「私はね、お兄ちゃん」
「ずっとお兄ちゃんが妹として好きだったの」
「いつも私と一緒に遊んでくれて、いつも私を手を繋いでくれて、いつも私を守ってくれた」
「……少し大きくなって、お兄ちゃんが私を遠ざけた時あったよね?」
「その時、私とっても苦しかったんだ。夜も眠れないくらい」
独白を続ける陽香。
俺はただそれを黙って聞くことしかできない。
止めるべきだ。
心はそう叫んでいる。
けれど、言葉は出ないし、身体は動かない。
それは陽香の雰囲気があまりにも真剣だったから。
そして、あまりにも儚かったから。
それでも陽香は独白を、いや、告白を続けた。
「そしてね、ある時気づいたの。これは、恋なんだって」
「私はお兄ちゃんのことを一人の男の人として……好きなんだって」
「それは今も、同じ」
「……お兄ちゃん、大好き」
「誰よりも……」
「だから、お兄ちゃん」
「私と付き合ってくださいっ!!」
陽香はそれを口にした。
それは、兄妹という俺たち二人の関係を壊す決定的な言葉だ。
「………………っ」
だが、俺は、何も答えられない。
常識で考えたら、NOとそう答えるべきだったのだろうが。
しかし、俺の頭はその答えを弾き出せなかった。
「いや……ま、て……」
今更ではある。
しかし、一つ疑問が生じた。
俺、いつも誰かと帰ってたか?
本当に今更でどうでもいいこと。
陽香から告白を受けたこの瞬間に考えることではない。
しかし、何故か気になっていた。
そういえば、一緒に帰るほど親しい友人は俺にはいない。
もし誰かと一緒に帰るとしても、せいぜいあかりくらいだ。
しかも、付きまとわれるような形で。
だから、こんなに楽しく、ましてや下校の最中に告白などされるなんて…………。
……それに、そう。
陽香のこの格好もおかしい。
彼女は中学校の制服を着ていたのだ。
今、陽香は高校生のはずだ。
高校には行けていないが、陽香は今十六歳だ。
……って、あぁ、そうか。
これはおかしい。
だって、陽香が学校に通っているのだ。
本来ならば、彼女は今……。
『そう。妹ちゃんは今ベットの上さ』
『それにしても、もう気付いたのかい?』
『随分早かったね』
「っ!?」
無機質な声が俺の頭の中に響いた。
一体どこから?
『ここだよ、君の後ろさ』
「っ!? お、おまえっ!」
振り返ると、奴がいた。
『羊』
夢世界に住むと嘯く化け物。
……って、ん?
そうか!
これは『夢』か。
『ご名答。ここは君の妹ちゃんの『夢』の中さ』
「……ここが、陽香の……」
辺りを見渡す。
よく見れば、確かに現実の世界ではないことが分かる。
何故なら、風景が霞んでいるのだ。
どこか靄がかかったように、不明瞭で不安定な風景。
そんな中で、夕陽だけが鮮やかに紅く輝いている。
それが、ここが現実ではなく、『夢』なのだと物語っていた。
「おい、『羊』!」
『ほらほら、ボクのことは放っておきなよ。妹ちゃんが困惑しているじゃあないか』
「あ?」
「……お、お兄ちゃん?」
『羊』から詳しい話を聞こうとしていると、陽香が俺のことを不思議そうに見ていた。
いや、不安そうに、か?
まぁ、それもそうか。
『夢』とは言え、陽香は俺に告白……したんだもんな。
そりゃあ、何も答えが返ってこなくては不安にもなる。
……まぁ。
これが『夢』だと分かれば、少しは頭も働く。
『夢』なんて大抵が理解不能な代物だ。
兄である俺に告白するなんて、『普通』じゃないこともあり得るのだろう。
「気にするな、陽香」
「えぇと、あの……」
「……こ、告白の返事か?」
「…………う、うん」
「………………」
少し冷静になった頭で考える。
陽香に告白をされた。
とは言っても、ここは陽香の『夢』の中。現実の世界ではない。
本来、妹の告白などという『普通』とはかけ離れたことが起こったならば、きっと俺は告白という事実自体をうやむやにしようと躍起になることだろう。
惚けたり忘れたりするだろう。
それが『普通』なのだから。
しかし、何度も繰り返すが、これは陽香の『夢』なのだ。
もしここで俺が断ってしまったら、この『夢』は悪いものになるのだろう。
『悪夢』になってしまうのだろう。
ならば、俺の答えは決まっている。
現実では、原因不明の病気のせいで、ベットで眠るしかない妹に。
恋愛なんてする機会もない妹に。
例えそれが偽物だったとしても――
「……陽香、付き合おう」
「え……?」
「俺と恋人になろう」
――幸せな『夢』を見せてやってもいいだろう?