第1話 悪女エレノアという問題
古い箱を開けたのは、ほんの気まぐれでした。
家の書庫を整理していたときのことです。棚の奥、布に包まれたまま長いこと忘れられていた木箱がひとつ。錠はとうに壊れていて、蓋を持ち上げると、かすかに紙とインクの匂いがしました。
中には紙束がいくつか。折り目のついた書簡や、走り書きの控えや、端が焦げた公文書の写し。
それから——鍵が一本。
小ぶりで、飾り気のない、実用だけでできたような鍵でした。
この鍵が何を開けるものだったのか、そのときの私にはわかりませんでした。
わかっていたのは、この紙束の中に何度も出てくる名前がひとつだけあるということ。
エレノア・ヴァレニウス。
その名前には、あまりよくない評判がついてまわります。
冷たい女だった。
気位が高かった。
男たちを振り回した。
王家をかき乱した。
そんなふうに書かれた記録は、探そうと思えばいくらでも見つかります。
たとえば、戦後に出た歴史書の一冊には、こんな一文がありました。
——エレノア・ヴァレニウスは、その美貌と才知によって宮廷に強い影響を及ぼし、王太子アレクシス、第二王子セドリック、ならびにラウル公爵との関係は、のちの政情にも影を落とした。
また、出どころのはっきりしない俗本では、もっと思い切った書かれ方をしています。
——あれほど美しい悪女も珍しい。彼女は微笑みひとつで男を迷わせ、視線だけで女たちを黙らせた。
悪女。
ずいぶん勝手な呼び名です。
そう呼んでしまえば話が早いのでしょう。ややこしい事情も、食い違う思惑も、全部まとめてひとりの女に押しつけられますから。
でも、そうでしょうか。
本当にエレノアは、そんなふうにひとことで片づけていい人だったのでしょうか。
「だって有名でしょう?」
「王太子と、第二王子と、それから公爵まで」
「そんな話になれば、誰だって恋のもつれを想像するわ」
ええ、そうですね。
実際、後世の人々はみな、そういう物語を好みました。
恋をして、惑わして、振り回して——そういう女として覚えておくほうが、ずっと面白いですから。
でも、面白い話と、本当の話は、いつも同じとは限りません。
古い紙束を読んでいくうちに、私が気づいたのはそのことでした。世間に残っている「エレノア・ヴァレニウス」と、記録の隙間から見えてくるエレノアは、どうやら輪郭が違うのです。
たとえば、彼女の見た目ひとつとっても、記録はまるで一致しません。
ある歴史書では、こう書かれています。
——氷を削ったような美貌。笑みは少なく、まなざしは刃のように鋭い。
ところが、倉番の聞き書きにはこうあります。
——思ったより小柄で、手は細かった。けれど目だけは強かった。あの目で帳面を見られると、嘘はつけない。
宮廷の記録は美貌と冷たさばかりを書き留め、現場の記録は手の細さと目の強さを書き留めた。どちらが正しいというのではありません。ただ、同じ人を見ていたはずなのに、残された印象がこれほど違うということは、覚えておいてよいと思います。見る側の立場が変われば、見えるものも変わる。記録とは、そういうものですから。
さて、エレノアの名前が出るとき、たいていはこの三人の名前もいっしょについてきます。
王太子アレクシス。
華やかで、誰の目にもわかりやすいひと。広間に立てばそれだけで人の視線が集まるような方だった、と多くの記録が書いています。
第二王子セドリック。
やさしく穏やかで、人の痛みに敏いひと。兄君ほど目立たないけれど、そのぶん近くにいる人を安心させる空気があったようです。
そして、ラウル公爵。
寡黙で近寄りがたく、けれど政治の中枢にいたひと。背が高く、笑うことが少ないので、初対面の者はたいてい怖がったと伝わっています。
こうして名前だけ並べてみても、いかにも何かが起こりそうです。
きれいで、劇的で、少し危うい話が。
だからでしょう。
人はみな、エレノアが誰に愛されたかを語りたがりました。
誰を惑わせたのか、誰の心を奪ったのか、誰と恋をしたのか——そういうことばかりを、面白そうに拾い集めたのです。
けれど、古い記録をめくっていくと、そうした噂話の端で、別のものがちらりと見えてきます。
断片的な証言。
食い違う日付。
戦時下の帳面。
誰かが意図的に伏せたらしい文書。
そして最後に、たった一行だけ残された婚姻の記載。
それが誰と誰のものなのか、ここではまだ書きません。
その一行は、あまりに短くて、でもあまりに重いので。
これから私がやろうとしているのは、残された紙の束を順にめくっていくこと、ただそれだけです。恋物語のようでいて、たぶん少し違う。誰が正しかったかではなく、何が本当だったのかを、古い記録のあいだから拾い集める試みです。
誰が彼女を欲しがったのか。
誰が彼女に惹かれたのか。
もちろん、それも無関係ではありません。
でも——問題は、誰が彼女を望んだかではないのです。
エレノアが最後に、誰と並んだのか。
知りたいのは、そのことでした。
——セシリア




