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誰が悪女を愛したか  作者: 十返香
悪女の噂と三人の男

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1/6

第1話 悪女エレノアという問題

 古い箱を開けたのは、ほんの気まぐれでした。


 家の書庫を整理していたときのことです。棚の奥、布に包まれたまま長いこと忘れられていた木箱がひとつ。錠はとうに壊れていて、蓋を持ち上げると、かすかに紙とインクの匂いがしました。

 中には紙束がいくつか。折り目のついた書簡や、走り書きの控えや、端が焦げた公文書の写し。

 それから——鍵が一本。

 小ぶりで、飾り気のない、実用だけでできたような鍵でした。


 この鍵が何を開けるものだったのか、そのときの私にはわかりませんでした。

 わかっていたのは、この紙束の中に何度も出てくる名前がひとつだけあるということ。


 エレノア・ヴァレニウス。


 その名前には、あまりよくない評判がついてまわります。


 冷たい女だった。

 気位が高かった。

 男たちを振り回した。

 王家をかき乱した。


 そんなふうに書かれた記録は、探そうと思えばいくらでも見つかります。

 たとえば、戦後に出た歴史書の一冊には、こんな一文がありました。


 ——エレノア・ヴァレニウスは、その美貌と才知によって宮廷に強い影響を及ぼし、王太子アレクシス、第二王子セドリック、ならびにラウル公爵との関係は、のちの政情にも影を落とした。


 また、出どころのはっきりしない俗本では、もっと思い切った書かれ方をしています。


 ——あれほど美しい悪女も珍しい。彼女は微笑みひとつで男を迷わせ、視線だけで女たちを黙らせた。


 悪女。

 ずいぶん勝手な呼び名です。

 そう呼んでしまえば話が早いのでしょう。ややこしい事情も、食い違う思惑も、全部まとめてひとりの女に押しつけられますから。


 でも、そうでしょうか。

 本当にエレノアは、そんなふうにひとことで片づけていい人だったのでしょうか。


「だって有名でしょう?」

「王太子と、第二王子と、それから公爵まで」

「そんな話になれば、誰だって恋のもつれを想像するわ」


 ええ、そうですね。

 実際、後世の人々はみな、そういう物語を好みました。

 恋をして、惑わして、振り回して——そういう女として覚えておくほうが、ずっと面白いですから。


 でも、面白い話と、本当の話は、いつも同じとは限りません。


 古い紙束を読んでいくうちに、私が気づいたのはそのことでした。世間に残っている「エレノア・ヴァレニウス」と、記録の隙間から見えてくるエレノアは、どうやら輪郭が違うのです。


 たとえば、彼女の見た目ひとつとっても、記録はまるで一致しません。


 ある歴史書では、こう書かれています。

 ——氷を削ったような美貌。笑みは少なく、まなざしは刃のように鋭い。


 ところが、倉番の聞き書きにはこうあります。

 ——思ったより小柄で、手は細かった。けれど目だけは強かった。あの目で帳面を見られると、嘘はつけない。


 宮廷の記録は美貌と冷たさばかりを書き留め、現場の記録は手の細さと目の強さを書き留めた。どちらが正しいというのではありません。ただ、同じ人を見ていたはずなのに、残された印象がこれほど違うということは、覚えておいてよいと思います。見る側の立場が変われば、見えるものも変わる。記録とは、そういうものですから。


 さて、エレノアの名前が出るとき、たいていはこの三人の名前もいっしょについてきます。


 王太子アレクシス。

 華やかで、誰の目にもわかりやすいひと。広間に立てばそれだけで人の視線が集まるような方だった、と多くの記録が書いています。


 第二王子セドリック。

 やさしく穏やかで、人の痛みに敏いひと。兄君ほど目立たないけれど、そのぶん近くにいる人を安心させる空気があったようです。


 そして、ラウル公爵。

 寡黙で近寄りがたく、けれど政治の中枢にいたひと。背が高く、笑うことが少ないので、初対面の者はたいてい怖がったと伝わっています。


 こうして名前だけ並べてみても、いかにも何かが起こりそうです。

 きれいで、劇的で、少し危うい話が。


 だからでしょう。

 人はみな、エレノアが誰に愛されたかを語りたがりました。

 誰を惑わせたのか、誰の心を奪ったのか、誰と恋をしたのか——そういうことばかりを、面白そうに拾い集めたのです。


 けれど、古い記録をめくっていくと、そうした噂話の端で、別のものがちらりと見えてきます。


 断片的な証言。

 食い違う日付。

 戦時下の帳面。

 誰かが意図的に伏せたらしい文書。

 そして最後に、たった一行だけ残された婚姻の記載。


 それが誰と誰のものなのか、ここではまだ書きません。

 その一行は、あまりに短くて、でもあまりに重いので。


 これから私がやろうとしているのは、残された紙の束を順にめくっていくこと、ただそれだけです。恋物語のようでいて、たぶん少し違う。誰が正しかったかではなく、何が本当だったのかを、古い記録のあいだから拾い集める試みです。


 誰が彼女を欲しがったのか。

 誰が彼女に惹かれたのか。

 もちろん、それも無関係ではありません。


 でも——問題は、誰が彼女を望んだかではないのです。


 エレノアが最後に、誰と並んだのか。


 知りたいのは、そのことでした。


——セシリア

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