第7話:音もなく乾く王都
王都の変調は、誰にも気づかれないほどの微かな「澱み」から始まった。
最初は、高級住宅街の噴水の水階がわずかに下がったこと。次に、街路の清掃用に使われる共用水路の勢いが弱まり、石畳の隅にわずかな悪臭が残り始めたこと。
市民たちはそれを「季節の変わり目」や「一時的な不調」だと思い、誰も深くは気に留めなかった。
だが、王都という巨大な機構を、数値の集合体として管理していたアルスだけは知っていた。
この都市の地下水路は、迷宮のように複雑に入り組んだ「妥協の産物」であることを。
王都は増築を繰り返した結果、水路の各所に深刻な水圧の偏りが生じている。アルスがいた頃は、彼が要塞からの送水量を調整し、各所のバルブを数ミリ単位で開閉する「精密な見積もり」を毎日行っていた。それによって、都市の隅々まで均等に水が行き渡る、奇跡的なバランスが維持されていたのだ。
その「調整役」が消え、さらに源流であるグラナード要塞で水が確保されたことで、王都への送水圧は、物理的な臨界点を下回った。
「……おい、どういうことだ! 井戸の水が泥のように濁って、洗濯もできやしねえぞ!」
「神殿の水道もだ! 昨夜から茶色い水しか出ない。聖女様は何をしているんだ!」
一週間が経過する頃、王都の広場では、バケツを手にした市民たちの怒号が響き渡っていた。
水圧が低下したことで、水路の底に溜まっていた数十年分の泥が巻き上がり、都市の全域で水質汚染が始まったのだ。
「……何をしているの! 早く技師を呼んで修理させなさい!」
王宮神殿の奥深くで、聖女セリアがヒステリックな声を張り上げていた。
彼女の自慢である白磁のような肌は、満足に水を使えない焦燥からか、わずかに荒れ始めている。
「それが……技師長によれば、どこで詰まりが起きているのか、検討もつかないそうです。図面を調べようにも、過去の補修記録の半分はアルス様が『現場の状況と合致しない』と言って、自分の手帳にだけ最新の数値を書き込んでいたらしく……」
「あいつ……! 嫌がらせのために、情報を独占していたのね!?」
セリアは罵倒するが、それは事実に反していた。アルスは何度も「図面の整合性を取るための予算」を申請していたが、セリアやレオンたちが「戦いに関係ない無駄遣いだ」と握り潰し続けてきたのだ。
彼らは今、自分たちが切り捨てた「地味な事務作業」が、どれほどの重みを持っていたかを、喉の渇きという形で思い知らされていた。
一方、勇者レオンもまた、かつてない屈辱の中にいた。
「……レオン様。申し訳ありませんが、これ以上のツケでの装備メンテナンスはお断りさせていただきます」
「なんだと!? 俺は人類の希望、勇者レオンだぞ! 俺の剣が鈍れば、魔物から誰が街を守ると思っている!」
勇者ギルドの馴染みの武具店。店主の親父は、なじみのない冷淡な目でレオンを見据えていた。
「勇者様、希望じゃ腹は膨れねえし、鉄も買えねえ。アルス様がいらした頃は、遠征の三日前には必ず『前払い』で正確な金が振り込まれ、材料の鉄も、あいつがどこからか安くて質のいいのを引っ張ってきてくれた。だが、今のギルドの会計係はどうだ? 書類は不備だらけ、振り込みは三ヶ月遅れ……おまけに『勇者の威光で安くしろ』だと? 冗談じゃねえ、こっちは水を買うのにも苦労してるんだ!」
「ぐっ……!」
レオンは言葉に詰まった。
彼が華々しく魔物を倒し、喝采を浴びていた裏で、アルスは武具屋の頑固親父と酒を酌み交わして信頼を築き、ギルドの官僚を理論武装でねじ伏せて予算をもぎ取っていた。
レオンが「自分の実力」だと思い込んでいた栄光の半分は、アルスという歯車が完璧に回していた「経営の成果」に過ぎなかったのだ。
その頃、グラナード要塞――。
「……よし。王都の各貯水槽が『稼働限界』を下回るタイミングだ」
アルスは要塞の屋上で、手帳に刻々と変化する数値を書き込んでいた。
彼の手元には、地下から汲み上げられた純度の高い水が、豊かな音を立てて噴水から溢れている。
「小僧。王都の連中、今頃パニックだろうな。……だが、これじゃあ逆恨みされるだけじゃねえのか?」
ガリウスが、要塞の外壁に設置した蒸気駆動の警備装置を点検しながら尋ねる。
「逆恨みはコストの無駄だ。俺はただ、俺が管理していた『無理な循環』を止めて、自分のリソースを自分のために使い始めただけだ。……彼らが自力で解決できないのは、俺のせいじゃない。彼らの『管理能力の欠如』だ」
アルスは冷徹に言い放ち、中庭を見下ろした。
そこでは、宿場町から逃れてきた難民たちが、アルスから与えられたパンを頬張り、活気ある声で要塞の改修に励んでいる。
清潔な水、腹を満たすパン、そして「自分の労働が正当に評価される」という安心感。
王都が失ったすべてが、今、この荒野の要塞に集積されつつあった。
「ガリウス。防衛ラインの圧力を上げろ。……王都の連中が、自分たちの無能を棚に上げて、奪われたものを取り返しに来る頃合いだ」
「ハッ、待ち遠しいぜ。こっちの準備は、王都の騎士団を十回全滅させてもお釣りが来るレベルだ」
王都が静かに乾き、焦燥が怒りへと変わる中。
要塞は、かつてないほどの魔力と活気を孕み、巨大な牙を剥こうとしていた。




