第6話:黄金のパンと、荒野の法
要塞の中庭を埋め尽くした『古代天恵麦』は、通常の麦が数ヶ月かける成長を、わずか一週間で遂げた。魔力と塩害を糧にするその穂は、まるで磨かれた真鍮のように鈍い黄金色の光を放っている。
ガリウスが石材を加工して作り上げた石窯から、香ばしい匂いが立ち上る。
焼き上がったのは、ずっしりと重く、表面が弾けた黄金のパンだ。
「……合格だ。この品質なら、王都の貴族が金貨を積んでも手に入らない。これを『資本』として、本物の人材を買い叩く」
アルスは要塞の正門を解き放った。門の外には、水の匂いとパンの香りに誘われた宿場町の民たちが、飢えと疑念の入り混じった表情で立ち尽くしていた。
アルスは、手帳の数値を拡声魔法で荒野に響かせた。
「皆、聴け。俺が欲しいのは、俺の見積もりに応え、この要塞を都市に作り変える『労働力』だ。……対価は、このパンと清浄な水。そして――これだ」
アルスが掲げたのは、要塞の紋章が刻印された小さな「白磁の硬貨」だった。
ガリウスに、要塞の余剰石材を焼かせて作った、偽造不能な代用貨幣。
「……なんだそれは? そんな石ころ、王都じゃパン一個も買えねえぞ!」
野次が飛ぶ。当然の反応だ。崩壊した荒野で、得体の知れない硬貨を信じる者などいない。
「その通り。これは王都では使えない。だが、この要塞内では、金貨以上の価値を俺が保証する」
アルスは手帳を開き、冷徹なロジックを叩きつけた。
「現在、王都の通貨価値は、物流の崩壊とインフラの停止で暴落している。あんたたちが持っている銅貨は、明日にはただの金属クズだ。……だが、この『要塞硬貨』一枚は、必ずパン三個と水一リットルに交換できる。俺がこの要塞を維持し続ける限り、この価値は絶対に変動しない」
【判定:要塞内経済の創設】
【担保:古代天恵麦の在庫、および無限の地下水源】
【効果:王都の経済破綻から切り離された、独自の信用経済の確立】
「俺は、あんたたちの『今日一日の労働』を、この硬貨五枚で見積もる。……それはつまり、家族全員が腹一杯食えるだけの『未来の食事』を保障するということだ。王都の腐った金貨を信じるか、俺のパンを信じるか。選べ」
沈黙が流れた。
次の瞬間、最前列の男が、泥にまみれた手でアルスの前に進み出た。
「……俺は、パンを信じる。……働かせてくれ。石運びでも何でもやる!」
飢えという極限のストレスが、アルスの提示する「絶対的な現物担保」によって、爆発的な信頼へと書き換えられていく。
「アルス・ロベント! 公金横領の疑いで連行する!」
無粋な声と共に現れたのは、王都の役人だった。彼はアルスが配る「白磁の硬貨」を軍靴で踏みにじり、民衆を嘲笑った。
「こんな石ころに価値などない! 荒野で王国の法を忘れ、独自の通貨などと……明確な反逆罪だ。衛兵、この賊どもを捕らえろ!」
王都の権威を盾にする役人に、民衆が怯え、後退りする。だが、アルスは動じず、役人が跨る馬の脚を指差した。
「……役人さん。王国の法を説くなら、まず自分の足元の『横領』を説明したらどうだ?」
「何……? 言いがかりはやめろ!」
「俺の目は欺けない。その馬の右蹄、不自然に削れているが、隠しきれていないぞ。王都の厩舎から『病死した』と偽って持ち出した、軍用馬の識別刻印だ」
アルスは手帳を開き、周囲の労働者たちにも見えるように「鑑定結果」を空中に投影した。
【対象:役人の乗馬】
【鑑定:王宮厩舎・識別番号三一二番】
【状態:死亡届提出済み(横領品)】
「なっ……! なぜそれを……!」
「あんたの汚職なんて興味はない。だが、俺の領地で王国の法を語るなら、俺は俺の法で裁かせてもらう。……ガリウス、こいつが連れている『王国の衛兵』たちの装備はどうだ?」
背後からガリウスが、兵士たちの剣を指差して鼻で笑った。
「ケッ。ひでえもんだ。王都の鍛冶屋が中抜きしたせいで、芯までボロボロの粗悪品だぜ。一発叩きゃ粉々だ」
アルスは役人を見据え、冷徹に告げた。
「役人さん、見積もりを教えてやる。あんたがここで『馬泥棒の脱走兵』として民衆に袋叩きに遭って消えるコスト。それと、今すぐその馬と衛兵の武器をここに置いて、裸足で逃げ帰るコスト……。どっちが安いか、計算するまでもないだろ?」
「う、貴様……!」
「ここはもう王国の土地じゃない。俺がパンと水で買い叩いた、俺の国だ。……さあ、選べ。30秒以内だ」
アルスが指を鳴らすと、パンで胃を満たし、アルスという新しい「雇用主」に命を預けると決めた百人の労働者たちが、手に手に石材用の斧を持って歩み出た。
飢えから救ってくれた主君を汚す役人に対し、彼らの目は野獣のようにぎらついている。
「……ひ、ひいいいっ! 覚えていろよ!」
逃げ帰る役人の背中を見送りながら、ガリウスが吐き捨てるように言った。
「……小僧、いいのかよ。あんな奴でも王都の使いだ。今頃、王都じゃ軍を動かす準備でもしてるんじゃねえか?」
「いや、無理だな。今の王都にそんな『余裕』はない」
アルスは手帳を開き、王都の現状を冷徹に見積もった。
【予測:王都の機能不全】
【要因:物流の要であった国防卿の失脚、および水脈の異常によるパニック】
【現状:崩壊ではない。だが、あらゆる決済と意思決定が『滞留』している】
「俺がいた頃は、無理な予算も俺が見積もりを操作して、なんとか帳尻を合わせていた。だが今は違う。国防卿を捕らえ、俺を追放したことで、彼らは『誰が何をいくらで動かしているのか』という情報の糸を全て失ったんだ」
アルスは、要塞の新しい住居区へと歩き出す。
「今ごろ王都では、兵士に払う給料の計算すら終わっていないはずだ。軍を動かすための食糧をどこから買うべきか、その判断ができる人間もいない。……あいつらがここへ攻めてくるには、まず自分たちの足元の『目詰まり』を解消しなきゃならない。それには数ヶ月はかかる」
「なるほどな。その間に俺たちは、この要塞を誰も手出しできない『怪物』に育てるってわけだ」
アルスは頷き、黄金の麦が波打つ中庭を見つめた。
王国はまだ滅びてはいない。だが、巨大な巨人が自らの重みで動きを止め、末端の細胞――つまり地方や宿場町から、徐々に壊死が始まっている。
「……ガリウス、次の工程だ。要塞の排熱を逃がすな。すべて蒸気として蓄積し、外壁の重火器へバイパスを通せ。王都が混乱を整理してこちらに目を向ける頃には、ここは世界で最も『高くつく』場所になっているはずだ」




