第40話:生活の浸食 ―― 蛇口から出る魔法
工事現場の土埃と、得体の知れない熱気に当てられたバドたちは、逃げるように自分たちの宿舎へと戻った。
ヴォルガ帝国の精鋭として、戦場での泥水や野営の不便さには慣れている自負がある。だが、グラナードが提示する「一分の狂いもない白銀の世界」を目の当たりにした後では、宿舎の古びた石壁さえも、自分たちを拒絶しているかのように冷たく感じられた。
「……千人長、見てください。何だ、これは」
部下が困惑した声を上げる。
宿舎の隅、昨日まではただの埃を被った石造りの洗面台だった場所に、見慣れない金属の管が取り付けられていた。
「またアルスの仕業か……」
バドが忌々しげにその金属の栓を捻る。
刹那、透明な飛沫と共に、もうもうとした湯気が立ち昇った。
「……なっ!?」
バドは反射的に手を引いた。
魔法使いが火の呪文を唱えたわけでも、従僕が裏で大釜を沸かしたわけでもない。ただ、冷たいはずの金属の口から、完璧な適温に調整された「お湯」が溢れ出している。
「……馬鹿な。火の魔石すら埋め込まれていない。なぜ、ただの水が熱を帯びているのだ」
バドが恐る恐るその湯に指を浸す。
心地よい温かさが、工事現場で強張った指先の芯を、優しく解きほぐしていく。
それは、彼らが極寒のヴォルガ帝国で、命がけの行軍の果てにようやく手にする「最高のご褒美」よりも遥かに純度が高く、そして容易に手に入るものだった。
「地下の『心臓』は、魔力だけを産むのではありません。うちの技術屋さんは、そこから生じる莫大な排熱すらも、水という媒介を通して街中に循環させています。……無駄を捨てるのは、我が主様の流儀に反します」
背後から、エレーナの静かな声が響いた。
彼女は数名の作業員を連れ、宿舎の各部屋に「清潔な着替え」と「白い石鹸」を並べさせていた。
「……エレーナ・ミリガンか。貴様ら、我々を家畜のように飼い慣らすつもりか。このような贅沢、武人には必要ない」
「贅沢? いいえ、これは『清算』ですよ、バド様」
エレーナは、バドの無骨な手を一瞥し、淡々と事務的な微笑を浮かべる。
「汚れた体、不衛生な環境。それらはすべて『疾病』という負債を招くリスク要因です。兵士が病に倒れれば、その分だけ防衛力が低下し、治療費という無駄なコストが発生する。……我が主様は、あなたたちに慈悲をかけているのではありません。ただ、あなたたちという資産を『清潔な状態』で維持管理したいだけなのです」
「管理……だと?」
「ええ。……さあ、その温かなお湯を使いなさい。本国から届くはずの、カビの生えた保存食と泥水のような酒……。それらを待つ間に、どちらが『人間らしい』か、その肌で計算してみることです」
エレーナが去った後、室内には湯気の湿り気と、微かな香料の匂いだけが残った。
部下たちは、我慢しきれずに洗面台に群がり、歓喜の声を上げながら泥にまみれた顔を洗っている。
バドは、激しく溢れ続けるお湯を凝視した。
魔法ではない。奇跡でもない。
ただ、アルスが構築した「システム」の一部として流れてくる、圧倒的なまでの快適さ。
それは、どんなに鋭い剣を突きつけられるよりも恐ろしかった。
なぜなら、一度この温かさを知ってしまった肌は、二度と「凍える夜」を正当化できなくなるからだ。
バドは震える手で、蛇口を閉めることができなかった。
温かな湯が、彼が誇りとしていた「不便への耐性」を、音もなく溶かしていく。
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