第31話:暫定市場(ポップアップ・マーケット)
かつて「大陸のへそ」と呼ばれた白亜の都ブランシェットは、今や赤黒い空の下、呼吸を止めた死体のように横たわっている。
周辺諸国から集まった「ハイエナ」たちは、ボロ布を口に巻き、血を吐きながら瓦礫を漁っていた。彼らの計算違いは、この地に停滞する魔潮の「分解能力」が、見積もりを遥かに超えていたことだ。
「……クソが。本国が用意した『聖印付きの保存食』が、なぜ三日で腐り果てる!」
ヴォルガ帝国の千人長バド・ザイツェフが、カビに覆われ石のように変質した干し肉を地面に叩きつけた。
本国から持参した一ヶ月分の物資は、汚染された大気に触れた瞬間、ただの「有機ゴミ」と化した。水筒の水は魔力塵に侵され、飲むだけで内臓を焼く毒水に変わっている。
彼らは今、利権を奪い合う「精鋭」ではなく、一週間後の第二次補給隊を待たずに野垂れ死ぬ「遭難者」に成り下がっていた。
――地底から、心臓を直接揺さぶるような駆動音が轟いた。
瓦礫の下、かつての地下物流搬入口が爆ぜ、煤けた鉄の巨躯――魔導貨物列車『グラナード・ワン』が滑り出してきた。
要塞グラナードの「動脈」が、地上の三日を粉砕し、わずか二時間足らずで地底を駆け抜けてきたのだ。
貨車の扉が開き、そこから降り立ったのは、漆黒の気密装備を纏った一団――『債務騎士団』だった。
「……信じられん。なぜ奴らは、この汚染下で呼吸すら乱さないのだ」
バドが驚愕に目を見開く。汚染された大気を背中のフィルターで濾過し、自らの動力へと変換するデット・ナイツにとって、この死地は「無限の燃料庫」に過ぎない。
彼らが重機で瓦礫を跳ね除ける横で、セドリックが優雅に懐中時計を閉じた。
「一時間四十五分。……フフ、計算通り。要塞で焼き上がったパンを『熱いまま』お届けできました」
その瞬間、貨車の奥から溢れ出したのは、暴力的なまでの「文明の香り」だった。
「……あ、ああ……」
湯気を立てる焼きたてのパン。ガリウス特製の石窯が産んだ香ばしい匂い。そして、魔導炉が濾過した、透き通った清潔な水。
「……バカな。なぜカビていない。なぜ腐っていない!?」
ゲルハルトが声を荒らげる。セドリックは事も無げに答えた。
「我が要塞の物流網は、真空魔導パッキングとガリウス製の定温コンテナで保護されていますから。あなた方の本国が誇る『聖なる加護』より、我が主の『見積もり』の方が正確だった。……ただ、それだけのことですよ」
「……パン一個、いくらだ」
バドが震える声で問う。
「一グラナです」
バドがヴォルガ帝国の鉄貨を差し出そうとしたが、通信機越しに響くアルスの声がそれを冷酷に制した。
『……待て。その鉄クズは受け取れない。ミラ、為替レートを』
「はい、アルス様。……ヴォルガ鉄貨、物資調達能力の欠如により『鉄屑』として時価換算。現在、この市場で通用する通貨は、我が要塞の『グラナ』のみです」
「な、なんだと!? ふざけるな、我々の通貨をゴミ扱いするか!」
「高すぎると言いたいのですか? ……いいえ、適正価格ですよ」
セドリックは一切動じず、パンを一つ掲げた。
「本来の原価に加え、この死地へ列車を走らせた輸送費。暖かい食事に加え、清潔で飲むことができる水。これらを積算すれば、むしろこの価格はアルス様の慈悲による慈善価格です」
セドリックは、パンを凝視する彼らに微笑みかける。
「もし手持ちの通貨に価値がないなら、『ツケ』を認めましょう。一週間後、本国から補給が届いた時に、その物資で精算すればいいのですよ」
ゲルハルトは、セドリックの差し出したパンを、ひったくるように奪った。
「……フン、面白い。一週間だ。艦隊が到着すれば、利息ごとその首を買い取ってやる」
ゲルハルトは内心であざ笑っていた。補給が来れば借金など踏み倒せばいい、と。
だが、パンを貪る彼らの背後で、セドリックは冷酷な笑みを深めた。
彼らが一週間後、本国の補給部隊が持ってくる「最新の魔潮対策物資」の価格を見積もった時、本当の絶望が始まるのだ。アルス・ロベントという男は、敵を殺しはしない。ただ、逃げられないほどに「正当な負債」を積み上げるだけなのだから。
【件名:王都跡地・暫定市場の開設。および、ゲルハルトへの「過剰融資」の実行】
死の都に、デット・ナイツが重機を操る規則的な駆動音が響き、絶望的な空腹を抱えた男たちが「借用書」にサインするペンの音だけが、不味い食事のBGMのように連鎖し始めた。
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